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「残ったのは『栃木県』というその名前だけである」

 ここで問題になるのは、県庁をどこに置くか、である。宇都宮県と栃木県が合併して栃木県を名乗ったのだから、最初はもちろん栃木が県庁所在地だった。実際に1879年には栃木で県議会も開かれている。少しずつ県の行政組織が固まってくると、栃木という場所はいささか不便ではないか、という話がそこで出てきたようだ。

 確かに、いくら栃木が宿場町・河岸町として繁栄していたとはいえ、宇都宮には劣る。何しろ宇都宮は7万石の城下町として歴史を刻んできた都市だ。日光にも近いし、東北方面と接続する奥州街道も通る。

 それに対して、栃木はしょせんは小さな宿場町。県庁所在地としての格を問うならば、さすがにムリがあったということだろう。

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 そんなわけで、結局1884年に県庁は宇都宮に移ってしまう。栃木の人々も署名を集めて反対運動を繰り広げたようだが、宇都宮の人々も同様に県庁の移転を求める運動を展開。ちょうど那須方面の開拓という課題を抱えていたこともあって、宇都宮はそこに近いという利点もあった。

 また、栃木は自由民権運動が盛んであり、政府にとってはそれも不都合だったようだ。細かい理由は他にもあれど、ただ一言でまとめるならば、結局栃木に県庁を置き続けるのは都市としての規模からして無理筋だった、ということに尽きるのではないかと思う。残ったのは、「栃木県」というその名前だけである。

とはいえ“県庁を失った町”が衰退するかというとそうではなく…

 とはいえ、県庁を失っただけで栃木の町が衰退したわけではなかった。1888年には両毛鉄道(現在のJR両毛線)の栃木駅が開業する。1929年には東武日光線も通る。鉄道が通ったことで、江戸時代以来の巴波川の舟運は衰えてしまうが、商業都市としての規模はある程度保たれていたようだ。

 

 例の細い商店街の先をゆくと、最初に駅前広場から少し歩いた大通りへと合流する。この大通りがいまの栃木の中心市街地を貫くメインストリート。ここにも昔ながらの商都の面影を偲ばせる古めかしい建物がいくつも建ち並んでいる。都心のそれとは違う、落ち着いたムードのスタバまである。かつて町の中心だったことを示す道路元標は、倭町という交差点にいまも残っている。