1ページ目から読む
3/4ページ目

――同じ場所に長く働いていて、若い人ばかりだと「紳さん」などと呼ばれて慕われたのでは。

足立 「バイトのほうに流れていってるな、俺」という感覚はありましたね。それで、スーパーの早朝品出しをやるようになったんですよ。思った通り、スーパーの品出しバイトにはあんまり人に会いたくないんだろうなという雰囲気の人たちが多くて。

 2015年あたりも、まだバイトしてましたね。『百円の恋』の後に3本か4本ぐらい映画をやってから、なんとなく脚本だけで食えるようになってきて。

ADVERTISEMENT

松田優作賞の脚本賞でグランプリ

――それも踏まえて『百円の恋』は、感慨深い作品ですよね。

足立 『百円の恋』は、2012年、40歳のときに松田優作賞という脚本賞でグランプリを取ったんですよ。最終審査に残った3人が授賞式に呼ばれて、そこで受賞を発表されるんですけど、あの瞬間は今でも忘れられないですね。本当に「助かった」と思いましたもん。

 その後いくつか賞をいただけることもありましたけど、あのときの松田優作賞は格別です。賞金はダンチで一番安いですが、とにかく首の皮一枚つながったと。松田優作賞を立ち上げてくださった周南映画祭実行委員長の大橋広宣さんとは今でも懇意にさせてもらってます。その後一緒に映画も作りましたし。

 ただ、松田優作賞は映画化が決まっている賞ではないんです。だから、自分で「誰か映画にしてくれませんか」って1年ぐらい営業してましたね。

――どれぐらい回りました?

足立 古くから知っている人に「これ、どこかに持ち込んでもらえませんか?」みたいな感じで。『百円の恋』の監督をやってくれた武(正晴)さんは、松田優作賞を取る前からいろんなところに脚本を持っていって売り込んでくれました。何社くらいのプロデューサーが読んだのかな。たぶん、武さんと僕とで10社は持ち込んでいるんじゃないですかね。結局、東映ビデオの佐藤現さんが企画にのってくれて何とか成立させてくれました。あのとき成立してなかったら、多分いまもバイトしていますね。

――2016年に刊行された『乳房に蚊』(『喜劇 愛妻物語』に改題)から小説家としても活動していますが、きっかけは。

足立 『百円の恋』を見た幻冬舎の方が、「小説を書く気はありませんか?」って声を掛けてくれたんです。「なにか書きかけのものとか、映画にしようと思ってボツになったようなものでもいいので、あったら見せてください」とも言われて。

 それで『14の夜』と『乳房に蚊』のプロットを読んでもらったら「面白い」と。すでに『14の夜』は映画化が決まってたので、『乳房に蚊』にして書き始めたんです。

 

妻に言われるがまま書いた処女作の小説

――それ以前に小説を書いたことって。

足立 1回書いたことがあったんですよね。あまりにも仕事がなかった、30代半ばの頃。脚本って書く仕事といっても、わりと共同作業なところがあるというか。監督とかプロデューサーとか、いろんなスタッフからさまざまな意見が来て、それに対応しなきゃいけないんですよ。

 僕が四苦八苦してるように見えたのか、妻が「あんたコミュ障だから、そういう共同作業向いてないんじゃないか。独りでやれる小説書いて、新人賞に応募してみなよ」と言い出して。それで書いてみたと。

――奥さんの提言は、受け入れられましたか? 「俺は脚本家だぞ!」的な矜持が邪魔したりは。

足立 脚本家の矜持なんて1ミリも持ってませんでした。今も持ってませんけどね。で、『朝、泣く』って小説を書いたんですけど、自分のなかでかなり気に入ってて。どっかいっちゃったんですけど、残ってたら是非とも世に出したいくらいです。

 妻の浮気を疑っている無職の夫が、妻が仕事の飲み会から帰ってくるのを悶々としながら部屋で待っているんですよ。酔っ払って帰ってきた妻が着替えもせずにバタンと寝てしまうんですけど、夫が寝ている彼女の体や下着を調べるっていう話です。