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 その際に使われる用語は、日本語であれば「ポリコレ」であるし、アメリカであれば最近では「ポリコレ」の語源であるポリティカル・コレクトネス(political correctness)に取って代わったウォーク(woke:「目が覚めた」の意味から、社会問題や差別に対して意識が高いという意味だが、現在一部ではそれが侮蔑語として使われている)である。

 確認しておかなければならないのは、「ポリコレに配慮した作品」に対する反感を抱く人の多くは、「政治的な意図」はなく、純粋に作品の出来のことを言っているのだと主張しがちだということである。

 例えば、あえてヒーローもの以外の例を取るなら、2023年に公開された実写版の『リトル・マーメイド』である。1989年のアニメ版では白人だったアリエルを、実写版では黒人のハリー・ベイリーが演じ、そのことは映画公開前から大きな反感を集めた(ただし、ベイリーのあまりにもすばらしい歌と演技のために、公開後はその声は減ったように思うが)。SNSでは#NotMyArielというハッシュタグ運動まで起きた。

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『リトル・マーメイド』(ディズニープラスで配信中)

 そのような主張をする人たちは、おそらく「人種差別の意図はない」と言うだろう。しかし、人種差別とは、そして差別一般は、そのようにして生じるのだ。つまり、誰も自分が差別者だと思い、公言しながら差別はしない。意図なく行うのが差別なのである。

 そのようなわけで、多様性を推進させる制作側と、そこにポリコレもしくはウォークの匂いを嗅ぎつけて、意識的であれ無意識であれ反感を表明して結果的に差別・排外主義に走る人びととの間の分断には、当面解決の糸口は見当たらない。そのような状況そのものを劇化してみせたのが「ザ・ボーイズ」シリーズだった。

正義はどこへ行く

 問題は、多様性の時代に正義はどこへ行ったのか、というふうにまとめられるだろう。それに対する一つの簡単な答えは、多様性こそが正義である、というものだ。だが、そのロジックの先にも袋小路が待ちかまえているだろう。つまり、多様性が正義であるのなら、悪は存在しうるのかという袋小路だ。価値観の多様性を突き詰めると、正義と悪との区別は見失われてしまうのではないか。現在の「多様性とヒーロー」をめぐる問題の本質はそこにありそうだ。