髪を下ろして出家した中宮定子
関白道隆の息子であるというだけで、苦労もせずに異例の昇進を遂げた伊周と隆家の兄弟。なんの軋轢も経験せず、世の酸いも甘いも知らぬまま高位に就いたため、世の理不尽に対する耐性がまったくなかったのだろう。雌伏の時間に耐えられれば、ふたたび浮上こともあったかもしれないが、彼らはそれができずに自滅した。
一条天皇は兄弟を赦さず、4月24日に関所を閉じる戒厳令を通達したうえで、内大臣の伊周を太宰権帥、中納言の隆家を出雲権守に降格。即刻配流するようにとの緊急の命を下した。
その後の兄弟の行動は、みずからの自滅にさらに追い打ちをかけるとともに、伊周の妹で隆家の姉である中宮定子の地位まで脅かすことになった。というのも、はじめて懐妊した定子が内裏を出て住まわっていた二条の邸宅に、兄弟は立てこもったのである。
『小右記』によれば、定子は体を張って兄をかばったようだが、一条天皇は許さずに家宅捜索を命じた。その結果、隆家は捕縛され、伊周はいったん逃亡したものの、数日後に出家姿で出頭。懐妊中の定子は責任をとり、髪を下ろして出家せざるをえなくなった。
未熟な若者による、あまりにお粗末な騒動だったというほかない。
兄弟を赦免できる道長の余裕
しかし、まだ騒動は終わらなかった。伊周は太宰府に護送される途中、病気と称して播磨(兵庫県南西部)にとどまっていたが、その後、こっそり都に戻って定子にかくまわれていた。出家もウソだった。こうして定子も巻き込んでさらに評判を下げた挙句、ようやく太宰府に送られ、「長徳の変」は収束した。
もっとも、一条天皇は伊周と隆家を、徹底して断罪したかったわけではないようだ。翌長徳3年(997)3月25日、詮子の病気平癒を期しての大赦が行われ、4月5日、伊周と孝家は公卿会議をへて召喚されることに決まった。
だが、すでに前年7月、正二位左大臣に叙せられていた道長にとって、いまさら伊周と隆家の兄弟が戻ったところで、少しも怖くない。道長自身、彼らを赦免しようという天皇の意向を尊重した。