伊周は法皇が為光邸に通っていると聞き、法皇の相手は四女ではなく、美人として世評も高い三女に違いないと決めつけた。そして隆家に相談すると、「まかせておけ」と。こうして2人は、為光邸前で花山法皇を待ち伏せし、法皇が馬に乗って帰ろうとしたところに、脅かすつもりで矢を放ったところ、矢は法皇の袖を貫通。法皇は慌てて逃げ帰った――。
『栄花物語』にはそんなふうに書かれている。その内容が史実かどうかはわからないが、ただし、それを否定する史料も存在しない、と書き添えておこう。
伊周と隆家の余罪
藤原斉信から連絡がいったのだろうか、道長はその夜のうちに事件を聞き知った。そして、都の警備と治安を担当する検非違使庁の別当(長官)であった、『小右記』の筆者の実資に連絡。20日後には関係者宅への家宅捜索も行われた。
すぐに捜索が行われた背景には、一条天皇の断固たる姿勢もあった。五位以上の貴族の邸宅を捜索するためには、通常は天皇の許可が必要だが、一条天皇は、いちいち自分に告げずにどんどん捜索するように指示したのだ。事件を起こした伊周と隆家は、天皇が寵愛する中宮定子の兄弟だが、天皇の権威を重視する天皇にとって、到底捨て置ける事態ではなかったということだろう。
ここまでが「長徳の変」の第1章だとすると、乱闘事件から2カ月余りすぎた3月末、第2章がはじまった。『小右記』(三月二十八日条)によれば、道長の姉で一条天皇の母、東三条院詮子の容体が悪化した際、彼女の在所の床下から呪詛の道具が見つかったのである。
この呪詛も伊周が命じたものだとされた。道隆から関白を受け継いだ道兼が急死した際、政権の中枢は伊周ではなく道長にまかせるべきだと、一条天皇を説得したのは詮子だった。当然、伊周は彼女を恨んでいただろう。だからといって、呪詛の道具をほんとうに伊周が仕掛けたのかどうかはわからないが、伊周の仕業ということになってしまった。
加えて4月1日には、天皇家にしか許されていない「太元帥法」を伊周が僧に行わせ、道長を呪詛していたという話が一条天皇に奏上された(『日本略紀』『覚禅鈔』)。こうして伊周と隆家の罪状は、あっという間に3つになったのである。