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 現在の高崎市内を含む周辺一帯は、戦国時代には武田・上杉・北条による領土争いの最前線。武田と北条が滅亡してからは、家康の重臣・井伊直政が入っている。このとき、直政は榛名山の南麓にあった箕輪城から拠点を移し、高崎城とその城下町の整備に取り組んでいる。これが、高崎の町の興りといっていい。

 

 直政は関ケ原の戦い後に軍功を評価されて彦根に移り、以後の高崎は譜代の有力大名が入れ替わり立ち替わり。加えて中山道の宿場街という機能もあり、参勤交代をはじめとして多くの人が行き交う町だった。高崎周辺からは草津や日光に向かう道筋も分かれていて、北関東きっての要地になっていたようだ。

 明治に入ってもそうした要所としての役割は変わらない。それどころか、さらに存在感を高めてゆくことになる。

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 1872年には、高崎の郊外、現在の富岡市内に富岡製糸場が開設される。1884年には、西南戦争に伴って歩兵第15連隊が編制され、その根拠地になった。連隊が置かれた場所は、いまの市役所一帯、高崎市役所の跡地だ。

 

いよいよ駅がやってくるも、県庁所在地には一瞬しかならず…

 

 そして、この年1884年には鉄道がやってくる。高崎駅の開業である。

 高崎線と高崎駅は、当時の私鉄、日本鉄道の第一期線とその終点として開業した。富岡製糸場を中心に、古くから養蚕業や製糸業が盛んだった上州一帯。鉄道を通じて横浜から生糸を輸出し、外貨を獲得しようという国家的な大目的に資するための鉄道だった。

 その後、高崎駅からは信越本線や上越線が分かれ、さらなる交通の要衝に育ってゆく。というよりは、江戸時代からの要衝が形を変えて近代以降もますます栄えた、というほうが正しいのだろう。高崎という町は古くから上州一帯の中心的な都市であり、物資の集積地であり続けていたのである。

 

 ただし、県庁所在地という立場は得られなかった。

 明治のはじめ、つまり鉄道が通ったり連隊が置かれたりしている時期に、県庁舎の場所は群馬と前橋を行ったり来たりしている。1871年に最初の群馬県が成立した時点では高崎に。しかし翌年に前橋に移り、さらに1873年には熊谷県になってしまう(熊谷県の県庁は熊谷だ)。