東條にとっての対米戦争は、〈精神力対物質力〉だったのか?

 海軍の庇護下で報道班員としてフィリピンに渡った新名が、現地で「必勝の算、我にあり」などと帝国海軍勝利の御用記事を書きつらねていたことも付記しておきたい(新名「台湾、比島沖海空戦の実相」)。

写真はイメージ ©︎AFLO

 ちなみに、昭和天皇は前述した2月9日、両統帥部長を説得するにあたり「本問題の如きにつき陸海の首脳部が遂に意見一致せず、ひいては政変を起すが如きことがあっては国民はそれこそ失望して五万機が一万機もできないことになるだろう」と、国民総離反の危険性を説得材料にしていた(『木戸幸一日記 下巻』2月10日条)。東條や陸海軍のみならず、天皇もこの戦争は航空総力戦であり、それを支える国民の協力、世論は不可欠と認識していたのである。

 この論争はまさに、1943年から44年にかけての対米戦争が、陸海軍ともに飛行機とその「量」主体の総力戦へと化していたことを意味する。それ自体は、対米戦局の推移を踏まえれば当然の帰結とすら言える戦争認識である。東條にとっての対米戦争は、〈精神力対物質力〉という、敗戦後に人口に膾炙した単純かつ非論理的な図式に基づく戦争だったのではない。

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精神力のみを鼓吹するかのごとく宣伝が行われていたが……

 たしかに戦時中の日本では、精神力のみを鼓吹するかのごとき宣伝が行われていた。大本営陸軍部で執筆され大日本翼賛壮年団が1943年11月に発行したあるパンフレットは「精神力対物質力の戦い」と題する章を設け、「皇軍の精神戦力は常に敵を圧している」と述べている(大本営陸軍報道部廣石少佐『翼賛壮年叢書35大東亜戦争の本義と世界戦局』)。

 こうした単純な言説の横行が、戦後になって対米戦争を〈精神力対物質力〉の戦いと記憶させ、今日に至っているとも考えられる。

 だが実際には、そうした精神力讃美の言説には、必ずと言ってよいほど、「しかるに戦況意にまかせないものがあるのは、遺憾ながら物質力において局地的に敵に劣る〔ため〕といわざるをえない」(同)などの文言が後に続いていた。同パンフレットの言う「物質力」とは、「現戦局、特に南太平洋方面の戦局を観るに、勝敗の鍵は飛行機の数量とまで極言しうる」とされた通り、航空戦力に他ならず、その増産(数量の確保)が国民に要請されていた。

 同パンフレットが「生産力の不足を将兵の精神力、尊き鮮血をもって補ってゆかねばならぬということは、前線将兵に対して洵に相済まぬ」と述べているのは、ある段階までの対米戦争が、飛行機の「数量」で戦われる戦争と認識されていたことを示す。