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だが、面倒なのは、それから1日経った11日の明け方には、彰子は母屋から退出して北側の廂の間、要は廊下のような場所に移っている。陰陽師によって、この期間は家内を清潔にたもたないと祟りを受けると指摘されたためだった。怪異や呪詛や物の怪を恐れるあまり、むしろ妊婦を危険にさらしてしまうのが、この時代の出産だった。

彰子の陣痛がはじまったときから、道長は物の怪の調伏を本格化させた。ここしばらく法華三十講をはじめ、土御門殿で法要に勤しんできた僧たちのほか、山からはありったけの修験者を集め、加持祈祷の体制を強化するとともに、陰陽師も集められるかぎり集めた。彼らの読経や呪文の声が寝殿を揺るがすほどだったという。

また、公卿たちも続々と駆けつけている。だが、伊周もやってきたのに、道長は会わなかった。実資は『小右記』に「なにか理由があるのか」という趣旨を記しているが、下手に会って呪詛されるのを恐れたのではないだろうか。

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恐ろしいまでの騒音のなかでの出産

実際、道長は呪詛のほかに物の怪を大いに恐れていたのである。すでに皇后定子が産んだ第一皇子の敦康親王がいるのに、彰子も一条天皇の皇子を産むとなれば、定子やその父の道隆の物の怪が現れても不思議ではない。

そこで道長は徹底した物の怪対策を実施した。専門の僧と、彰子に憑いている物の怪を引きはがして移す「よりまし」と呼ばれる霊媒で物の怪に対処するのだが、通常は1組で済ませるところを、道長は5組用意した。「よりまし」は概ね10代の少女で、僧侶1人、よりまし1人、そして介添え役の女房の3人を1組とし、それを5組もうけ、彰子を取り囲ませたのである。

物の怪が乗り移るたびに、「よりまし」はトランス状態になって大声を上げたり、駆けまわったりする。その様子は『紫式部日記』にも、修験僧が中宮様に憑いている物の怪を「よりまし」に移し、調伏しようとありったけの大声で祈り立てているなどと活写されている。