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彰子が4月13日、内裏から道長の邸である土御門殿に退出すると、23日には安産を祈願するための法華三十講がはじまった。そこから5月22日までの30日間、朝夕2回の法要が営まれた。その間、5月5日に行われ、女人成仏の功徳が説かれるなどした「五巻日」は特に重要視され、道長の日記『御堂関白記』によれば、多くの公卿が出席したという。また僧侶の数は143人におよんだという。

夜も寝られず庭をさまよい歩く道長

三十講が終わると、彰子は6月14日にいったん内裏に戻ったが、これは異例のことだった。この時代、妊婦は穢れているとされ、内裏に入るのは慎むのが基本だった。直前に亡き皇后定子が命を賭して産んだ媄子(びし)が死去しており、一条のさみしさを和らげるために道長がとった措置だといわれる。

しかし、出産は実家でするものだったので、彰子は7月9日、ふたたび土御門殿に入るはずだった。ところが、まさに内裏を退出しようとしていたところ、土御門殿には陰陽道で方位の吉凶をつかさどる大将軍が跋扈しているとだれかが指摘し、退出は7月16日に延期になっている。

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その後も面倒は発生する。藤原実資の日記『小右記』によれば、8月17日には土御門殿の井戸の上屋が突然倒れ、彰子の御在所内で犬が出産するなどの「怪異」があって、周囲は気が気ではなかったようだ。

そのころの道長の姿を紫式部が書き留めている(『紫式部日記』)。出産が間近に迫って夜も落ち着いて寝られないのか、朝のまだ半ば暗いうちから庭を歩いており、警護の者に鑓水(やりみず)のゴミを拾わせたりしていたという。ちなみに、『紫式部日記』は道長の命で、彰子の出産の様子を記録するために書きはじめられたと考えられている。

むしろ妊婦を危険にさらしてしまう

道長が妻の倫子から、彰子の陣痛がはじまったと知らされたのは、『御堂関白記』によれば9月9日の夜のことだった。それを受けて10日の明け方には、彰子は東母屋にもうけられた産所に移った。そして白木の御帳が立てられ、家具も調度も装飾も、それに女房たちの衣装まで、すべて真っ白に統一された。清浄をたもつためだった。