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そして、道長は「このごろ不吉なことが続き、中宮様のご懐妊もないゆえ、吉野の金峯山に参ろうと思う」と、大きな決意を口にし、実行した。奈良県吉野町にある標高1719メートルの霊山に、75日から100日にわたる精進潔斎(ある場所にこもり、酒も肉や魚も色も断って精進と祈りを続けること)ののちに参詣したのである。

途中、鎖を伝わって岩を登らなければならないほどの難所を、大勢の僧侶や人足を引き連れて登った。それを決行しなければならないほど道長は焦っていたわけだが、その甲斐があって、この年の末、彰子はついに懐妊。翌寛弘5年(1008)9月11日、願ったとおりに皇子(敦成親王)を出産した。

入内したときは12歳だった彰子が、肉体のほかに精神的にも成長したことがあるだろう。加えて、最高権力者の道長が、彰子の懐妊を願って大騒ぎをしているのを知った一条天皇に、放っておくわけにはいかないというプレッシャーがかかったことも大きいだろう。

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だが、いずれにせよ、彰子が無事出産するまでは、まさに一大国家行事の感があった。

安産を祈って30日間の大法要

王朝貴族のあいだでは、平安を乱すもののひとつが怪奇や怪異であり、ひとつが呪詛や物の怪だった。日常生活のなかで、たとえば鳥が屋内に入り込んだというだけでも怪異ととらえ、なにかの予兆とみなした。だから、それがなにを予告しているかを知るために、陰陽師の卜占(ぼくせん)が必要だったのである。

また、「光る君へ」では、道長の長兄、道隆(井浦新)の嫡男である伊周(三浦翔平)が道長を呪詛する場面がたびたび流されたが、この呪詛が効力をもつと信じられていた。だから、排除したい人物を呪詛する人が現れ、呪詛されうる人物は標的にされないように用心した。寛弘4年(1007)末に懐妊がわかった彰子だったが、3月になっても情報は秘せられていた。ひとえに呪詛されることを恐れてのことだった。

また、病などは物の怪、すなわち恨みを残してこの世を去った人物の怨霊の仕業だと信じられた。したがって、物の怪を鎮めることも大切だった。彰子が安産するためにも、怪異や呪詛や物の怪と戦わなければならず、だから出産は必然的に、想像を絶する規模の一大イベントになったのである。