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星野さんが一度だけほめてくれたこと

 1986年、戦後生まれとしては初の監督就任。同年、私は「星野新聞」に連載した小説「勝利投手」で賞をいただき、小説の中で星野監督はすでに優勝監督になっていて、東映でアニメ化された。浜松の秋季キャンプを訪れると、「大切なのは心と体の体力だ。ライターだってそうだろ」と励まされた。

 鉄拳制裁。あの頃は問題視されるどころか、社会全体で奨励されるような風潮だった。昭和の指導者や父親は教え子や自分の子をよく殴ったものだ。ストレス発散はもっぱらカラオケの替え歌で、参謀の島野育夫コーチは「浪速恋しぐれ」の「惚れた男のでっかい夢がある」を「惚れた星野」に替えたバージョンが定番。乱闘で監督が退場になった夜も、「嵐を呼ぶ男」の替え歌「乱闘を呼ぶ男」を合唱していた。

 シーズン終盤になると星野監督は、

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「あかん、選手たちがパンツのゴムひもみたいだ。どんなに怒っても勝てなくなってしまった」

 と嘆いた。星野監督は一人でいる時間は大リーグ中継を見ていて、「Number」と「週刊ベースボール」は隅々まで読む。なので、私は同誌に原稿を書くときは、いつも星野さんを読み手として強く意識した。

 折しも米国では80年代から90年代にかけて、大リーグの監督として活躍した“喧嘩屋”ビリー・マーチンの時代は終わり、フィギュアスケートの世界ではケリガン殴打事件も起きて、体罰や暴力が排除されつつあり、指導者たちは急激な意識変革を余儀なくされた。巨人軍が手本としたドジャース戦法も方向転換していった。

 私は取材と原稿をとおして、新しいムーブメントを星野監督に伝えたかった。若い世代の心をつかみ、育てるのは、もはや体罰ではない、と。大リーグの視察や新外国人の獲得の際のトラブルや家族調査など、星野監督との接点は途切れなかった。

「監督がな、あんなに野球を知っている女は他におらんと言うとったよ」

 と第三者は言ってくれたが、現実は叱られてばかり。例外は一度だけだ。野茂英雄がドジャース入りしたとき、日米のマスコミと衝突がたえなかった。

「マイケル・ジョーダンと野茂をあわせたい、と思うのです」と話したら、星野さんは強い口調で、「いいじゃないか。やってみろ」。これは後でほめられた。「ようやった。おまえな、ホントにようやったよ」

 実は当日、自分で段取りしておきながら、野茂をロッカーに導くとき、足と声が震えた。ジョーダンが左手を私の背中に回してくれたとき、ふと「わしは手が大きすぎて、キーボードで文字がうてんのよ」という星野氏の言葉が浮かんだ。そして、感じたのだ。星野さんは野球界全体のことに視線を向けているのだな、と。

監督時代は「鉄拳制裁」が代名詞だった星野仙一さん ©文藝春秋

 闘いの場では魂をこめて真剣勝負だ。四大を出ていない筆者は「星野大学」で学んだようなものだ。仕事に着ていく服は今でも襟がないと「これは監督に叱られるな」と落ちつかない。今でも眼をつぶると、「こんばんは、星野です」という最初の電話の声がして、がはは、という笑いが耳底によみがえる。

 縁とは奇妙なものだ。米国でスケートのコーチになった筆者の娘が、来栖三郎のひ孫を指導しはじめた。「グラングランパ(曾祖父)は短気でよく怒ったけれど、正義感と家族愛が強いシカゴ総領事だった」と聞いているそうだ。

 星野さん、なぜ扶沙子夫人が添い遂げたのか、少しわかりましたよ。

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