井上ひさし 絶対に妥協しない“悪意の作家”

野田 秀樹 劇作家・演出家
エンタメ 社会

放送作家、小説家、エッセイストなど多方面で活躍した井上(いのうえ)ひさし(1934―2010)。中でも劇作家としては、晩年まで戯曲を発表、日本劇作家協会初代会長を務めるなど、後進の育成にも積極的に関わった。長年、井上と共に岸田國士戯曲賞の選考委員を務めた劇作家・演出家・役者の野田秀樹(のだひでき)氏が、大先輩との思い出を語る。

 実は、僕が実際に「お師匠さん」と呼んでいたのは演出家の蜷川幸雄(にながわゆきお)さんでした。蜷川さんはビジュアルに対する感覚が圧倒的に優れていた。僕は舞台の演出もしているので、蜷川さんの作品を見て「お師匠さんすごいね」と偉そうに本人に言ったのがそう呼ぶようになった切っ掛けです。一方で井上さんを、劇作家として「師匠」と呼ぶのはちょっとおこがましい。でも勝手に教わったことがたくさんある、「偉大な先人」でした。

井上ひさし ©文藝春秋

 演劇をやっていた高校生のときに読んだ『日本人のへそ』は、ストリッパーは出てくるわ、言葉遊びは偏執的なまでに徹底しているわで、とにかく衝撃を受けました。やがて劇作家の仲間入りをしてから『小林一茶』を読んで、その文学性や、駄洒落や回文、歴史上の人物の読み替えなど、すべて先にやられてしまっていることに圧倒された。井上さんが扱う歴史や言葉遊びの裏には、膨大に読み込んだ資料があります。ただ思い付きを待っている僕などが敵(かな)うわけがなかった。

 最近も江戸時代を舞台にした僕の『足跡姫 時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)』で、腑分けをするシーンを入れようと考えていたんです。でも「あれ? 井上さんも『表裏源内蛙合戦(おもてうらげんないかえるがっせん)』で書いていたかも」と読み返したら、案の定出ていました。腑分けというある種タブーに近く、これまでほとんどの劇作家が書いてこなかった物事を、50年近く前に井上さんは書いていたんです。それで僕は腑分けのシーンそのものを入れるのを止めました。

 よく井上さんのことを“風刺作家”と呼ぶ人がいますが、そんな安っぽい名前に収まる才能ではありません。“悪意の作家”と言ってもいいぐらい、何人もの悪党の生きざまを描いて来られた。その最たるものが『藪原検校(やぶはらけんぎょう)』。この作品では、不幸な生まれの醜い盲目の主人公が、人殺しなど数々の悪行に手を染め、最後には捕らえられて処刑されてしまう。なぜこんな人物を主人公にしたのか。恐らく井上さんは、悪意のある人物を通して、人間や社会のあり方を描こうとしていたのだと思います。綺麗事ばかりを描くのを良しとする社会で、リスキーな試みだったと思いますが、それを見事にやってのけている。

 ご自分で「遅筆堂」というペンネームを使われるぐらい、原稿が遅いことで知られていました。台本が舞台の初日に間に合わないなんてこともあった。でもこれは井上さんが“作家”だったからだと思います。僕は演出や俳優もしているので、現場の気持ちが分かる。だからとにかく台本が遅れないように、遅れないようにと考えてしまうのです。ところが井上さんは作家だから現場は関係ない(笑)。絶対に妥協しないんです。でもその作家魂があったからこそ井上さんの作品は残っていて、何度でも再演されているんです。

野田秀樹氏 ©文藝春秋

若者に優しかった

 ご本人とよくお話するようになったのは1992年、井上さんも務められていた岸田賞の選考委員になってからです。

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source : 文藝春秋 2017年7月号

genre : エンタメ 社会