岩崎恭子 14歳の金メダリストの「天国と地獄」

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1992年、14歳で出場したバルセロナ五輪で競泳史上最年少金メダリストとなった岩崎恭子さん。「時の人」となった彼女は、狂騒の渦に巻き込まれる。14歳の少女の日常は瞬く間に崩壊した。五輪後の狂騒を乗り越えるための歳月をどう過ごしてきたのか。

今はメダルに本当に感謝できる

 今まで生きてきた中で一番幸せです――。1992年、バルセロナの太陽の下でうれし泣きした少女には、その有名な台詞と対照的になぜか薄幸の印象がつきまとっている。うつむきながら歩く姿、アトランタでの敗北、20歳での早すぎる引退、結婚と離婚……。世の中に向けて切り取られたシーンがそうさせるのか。それとも14歳という年齢と金メダルの重さのギャップゆえか。

 そう小難しく構えていた取材班の前に現れた岩崎恭子は笑っていた。さあ何でも聞いてとばかりに。

「やはり金メダルを取ってからかなり悩みましたよ。でもそれをどうやって消化して、自分を認めていくかという経験ができましたから。今はメダルに本当に感謝できるようになったというか。もうだいぶ前からですけど、感謝しかないです。金メダリストにも色々な方がいて、例えば北島康介選手は、自分でメダルを取ることを目標にして取りに行って本当に取った人ですから。年齢的なものと心の成長が相まって、メダルを狙って辿りつくという良い例だったと思うんです。私はあまりにも水泳選手としての自分が先にいってしまい。気持ちが追いつかなかったんです」

 その笑みはあのときと同じように爽やかで、あのときとは違う何かを積み重ねてきた人のものだった。金メダルがもたらした光と影、彼女の人生にはその正体が潜んでいる。
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岩崎氏

14歳は14歳

 ―1992年、14歳で出たバルセロナ五輪の記憶はまだ鮮明ですか。

「とにかく楽しかったんです。予選のときから調子がいいというのはわかって、本当に『スイスイ』という言葉はこのことなんだろうなと実感できるくらいすごく気持ちよく泳げました。決勝に残っても別に重圧があるわけではなく、メダルなんて意識していませんでしたから」

 ――200m平泳ぎの予選では自己ベストを3秒以上も更新し、当時の世界記録保持者アニタ・ノール(米国)に100分の1秒差と迫る、2分27秒78という日本新記録を出しています。一躍世界トップの仲間入りをして、決勝までどう過ごさなければいけないかと神経質になったりはしませんでしたか。

「私、あんまりそういう意識がなくて、14歳は14歳だと思っていたので(笑)。『代表選手として』という気持ちが芽生えたのもオリンピック直前の合宿に行くとき、体重制限のため、飛行機の中のデザートすら食べてはいけないと言われたときでした。オリンピックはそういうところなんだと。私は年齢的にも太ることはなかったんですけど、みんながそうやってるのに自分だけ食べるわけにいかない。だから終わってから好きなものをたくさん食べよう、ジュースも飲もうと」

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バルセロナ五輪での力泳

 ――決勝は2分26秒65の五輪記録で競泳史上最年少の金メダル。「今まで生きてきた中で一番幸せです」と語りましたが、その幸せはあの瞬間からどれくらいまで続いたんですか。

「まず帰国した空港にすごくたくさんの人やカメラマンさんがいて、自分の想像を超えたことが起こっていると少し怖くなりました。その日は東京に1泊して、次の日、テレビをつけたら私の『今まで生きてきた中で……』という言葉がものすごく取り上げられていて、え? という感じでした。そのまま沼津に戻ってパレードした後の記者会見でもあの言葉のことを聞かれて、あれ? と。そして会見も終わってさあ家に帰ろうと思ったら、『今日はもう危ないから家に帰れないので、伊豆の温泉に行ってください』と言われて……。ただ、その時はまだ周りに連盟の人や守ってくれる人がいてくださったのでそこまでではなかったんですが、本当に大変だったのは、やはり実家に戻ってから。どこに行っても視線を感じたり、外で見知らぬ人に追いかけられたり、だんだん生活しづらくなってきて……」

 ――バルセロナで金メダルを取ってからわずか数日で「幸せ」が霞んでいくわけですね。ちなみに帰国当初、金メダルはどうしていたんですか。

「母が管理していた……と思います。バルセロナでもらって自分で持って帰ってきて日本で母に渡した……。多分そうだったと思います。その辺りのこと全然、記憶になくて。14歳だったのでどこに行くのも母と一緒でした。東京でテレビ局まわりもしたんですけど、すべて母がついてきて、私の持ち物を持っていたので、たぶんメダルもそうだったと」

 表彰台で受け取った直後から金メダルについての記憶が薄いというのは興味深い。確かに14歳の少女がその重みを本当に実感するのはまだ先だった。そして皮肉なことに、そのきっかけとなったのは日常の崩壊だった。中学2年で「時の人」となったことで、自宅には中傷の電話がかかってきたこともあったという。

私のせいなのかな

「今はそういうことはどこでもあることなんだ、よく思う人もいれば、嫌だなと思う人もいるということはわかるんですが、当時はなぜ自分が嫌なことをされたり、妬まれないといけないのか、何で私がこんな思いをしなきゃいけないんだろう、なんで家族まで巻き込まれないといけないんだろうとか、何で? 何で? とそればかり思ってしまって……。そこから2年間はずっとそういうことで悩んでいました」

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 ――家族も巻き込んでというのは特に、同じく水泳をやっていた3歳上の姉・敬子さん、2歳下の妹・佐知子さんのことでしょうか。

「そうですね。特に姉は大変だったと思うんです。姉は勉強もできてスポーツもできて、性格的にはひとりで部屋に閉じこもって本を読んでるのが好きなタイプ。私は正反対で、昔から知っているコーチに言わせれば悪ガキでしたから。姉はよく私のことを八方美人と言っていて逆に私はお姉ちゃん空気読まないけど、すごいねって(笑)、尊敬していました。水泳ではジュニアオリンピックで優勝し、バルセロナ五輪の選考レースにも出るほどの選手だったので、私は姉がつくってくれた道を歩いていけた。姉の記録を塗り替えることだけを目標にやれたんです。それほどの選手なのにバルセロナの後は常に『岩崎恭子の姉』として見られるようになってしまって。結局、大学進学と同時に水泳をやめてしまいました。私がこんな状況になってなければお姉ちゃんも普通にもっといい成績をおさめて水泳を続けられたかもしれないのに、私のせいなのかな、きっとそうなんだろうなと。だからずっと気になっていたんです。ただ、当時の私は一方で『そんなの私のせいじゃない』という思いもあって。私も自分のことで精一杯だったので」

記憶のない2年間

 ――妹さんへの影響はどうでしたか。

「妹も水泳選手でしたが、中学まででやめました。彼女がかわいそうだったのは全国大会に出場するほどの選手なんですけど、全国で優勝していた姉や私と比べられてしまうので『全国大会までか』と思われてしまう。普通ならすごいことなのに。おそらく、そこは自分で感じてたと思うんです。やっぱり自分はお姉ちゃんたちのようなレベルじゃないと。だから早くに水泳をやめて、普通の高校生活を送ったと思うんです。

 そうやって姉のことも妹のこともああ、私のせいでそうなってるなというのはわかっていたんですが、でもあの頃の私は『私のせいでごめんね』とは言えませんでした」

 ――突きつめれば、岩崎さんのせいではないですよね。

「もちろん状況がそうさせているというのは本人たちもわかっていたんですけど、でも人間やっぱり何かのせい、誰かのせいにしたくなるじゃないですか。だからバルセロナ後の2年間、私は心を閉ざしていて、あまり記憶がないんです。それに気づいたのはアトランタ五輪が終わって大学に入ったばかりの頃です。自分の中でようやく整理ができていた時期でした。私は心理学を専攻していて、教授に記憶がないことを打ち明けると『人間は嫌なことを忘れられるからこうやって生きていけるんだよ。だからきっと自分の中ですごいつらかった出来事だったんだね』と言ってくださった。それで、ああ、そうだったのかと」

 ――では、あまり記憶のない中学3年から高校1年の自分というのは、他者から聞いて知るわけですか。

「そうですね。あの2年間の私のことを友人に聞くと『学校では別に普通にしていたけど、帰り道とか1歩外に出るとずっと下を向いていたよ』と言われました。あんまり人と目線を合わせたくなかったんだと思うんです」

 ――その閉ざされた2年間、金メダルはどこにあったんですか。

「金庫に入れていました。誰か人が来れば見せてと言われるんですが、当時、私はそういうことも見せびらかしているみたいに思えて嫌だったんです。今思えば、知り合いの方や友達に言われればそうするのは当たり前なんですけど、私自身があまり見たくなかったというか、やはり普通に生活できないこととか、姉妹のこととか、嫌なことが増えていくたびにこのメダルがあるからだって……。別にメダルがあったからというわけではないんですけど、当時は金メダルのせいにしちゃっていました」

サンタクララの記憶

 金庫に閉じ込められた金メダル、それはバルセロナ後の岩崎の内面を象徴している。メダルとの距離は遠く、隔絶していたと言ってもいい。

 ただ、その事実を語る今の岩崎は、あの頃の自分を笑い飛ばすことができている。金庫は開いたのだ。それはいつだったのだろうか。
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「その悩みからやっと抜けられたのは2年後、1994年でした。高校1年生の夏、世界選手権とアジア大会の選考があって、私は記録が悪くて代表から落ちたんです。それで1つ下のジュニア世代のアメリカ遠征に行くことになって、それが久しぶりに他人から見られてない環境だったんです。何より大きかったのは、遠征先のサンタクララという場所が中学1年生のとき初めての海外遠征として行った場所だったこと。そこで13歳の私を思い出したんです。本当に水泳に対して真っすぐに、ただ記録を伸ばしたいという一心だったなって。何でも吸収してやろうという気持ちがあって、先輩の泳ぎを水の中に潜って見たり。あれからまだ3年しか経っていないのに、今は何でこんな自分になっちゃったんだろうみたいな……」

 ――偶然にも同じ景色に出逢ったことで、金メダリストになる前の自分に戻れたということですか。

「13歳のときに泳いだのと同じプールでしたから。13歳と16歳、いろいろなことが自分の中で重なった。一緒に行ってたコーチには『神様は乗り越えられない人には試練は与えないよ』と言ってもらいました。バルセロナで同じ中学2年で一緒だったノリちゃん(稲田法子)もその遠征にいて彼女が自己記録を更新しようと必死に頑張っている姿を見たりだとか、年下の選手たちがすごく無邪気に水泳に対して取り組んでる姿とか見て、昔の自分もそうだったなと、大切なものを思い出せました。別に悩むんだったらマイナスに捉えるのではなく前向きに悩んでいこうと考えることができて、そうしたら自然と次に私がやるべきことはアトランタを目指すことだと思えたんです。次のオリンピックまで4年のうち2年間も悩みましたが、今は必要な時間だったんだと思っています」

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source : 文藝春秋 2020年1月号

genre : エンタメ スポーツ