「国民の意思」の絶対化が招くこの国の危機
佐伯氏
言葉の「霊」がわれわれを支配する
「ヨーロッパをひとつの亡霊がうろついている、共産主義という亡霊が」というよく知られたマルクスの言葉にならえば、今日、「日本をひとつの亡霊がうろついている、民意という亡霊が」といってもさしつかえなかろう。もちろん、マルクスとはまったく違った意味である。亡霊がやがて世界を支配することを期待したマルクスとは逆に、今日、われわれにとりついている亡霊は、われわれを破滅へと導くものかもしれない。
ここで亡霊という比喩が多少意味をもつのは、それが、実体でもないが、かといってまったくの幻覚でもない、という点にあろう。確かな存在でもないが、まったく存在しないというわけでもない。有と無の間を揺れ動く、この不確かであやふやなものがわれわれの社会に憑依(ハウント)している。憑依されたものは、「ミンイ、ミンイ」と騒ぐが、それが何を意味しているのかは誰もわからない。「ミンイ」では言葉の重みにかけるので、「国民の意思」と政治学風にいいかえても事態はかわらない。
にもかかわらず、新聞、テレビ等のマスメディアを通して、連日、この言葉によって視覚聴覚を刺激されておれば、いつのまにか、「民意」やら「国民の意思」なるものが本当に臨在しているかのように思われてくる。姿かたちをもたない不確かなものを、あたかもそこにあるかのように捉えること、すなわち山本七平のいう「臨在感的把握」が生み出される。「亡霊」というより「言霊」とでもいうべきであろう。「民意」や「国民の意思」という言葉が、何かある価値をもってひとつの規範となる。言葉の「霊」がわれわれを支配する。「言霊的臨在」である。
それが、この21世紀の、かつてない科学やデータの時代、両方あわせてデータ・サイエンス万能の時代にあっても、決定的な役割を果たしている。脳科学がすべてを解明できるかのように喧伝される時代に、「言霊」がわれわれの脳を占領するという不可思議な霊的憑依が生じているのだ。
もちろん、言霊的憑依現象は「民意」だけではない。今日、次々と新手のミニ言霊が浮かびあらわれる。「多様性」「LGBT」「データ」「実証」「可視化」「説明責任」「SDGs」「クリーンエネルギー」「脱炭素化」「改革」、それに依然として「経済成長」。少し前までは、「平和」「平等」「民主」「人権」が圧倒的に憑依能力をもっていた。その意味するものが不透明であるがゆえに、引用者の都合のよいように解釈され、一定の気分を伴って社会の空気を支配する。
ここで私が論じてみたいのは、もっぱら「民意」、つまり「国民の意思」である。この、有るとはいえないが、無いともいえない「憑依的存在(憑在)」が、どれほどデモクラシーと呼ばれる今日の政治を不安定化しているかが私には気になるからだ。
国民に訴える岸田首相
「民意」の便利使いをするメディア
一例をあげれば、2021年10月末の総選挙で、自民党も立憲民主党も議席を減らした。そこでたとえば朝日新聞は社説で次のようなことを書いていた。「甘利幹事長の小選挙区での落選は、自民一強体制への批判という民意の表明である」と。また、毎日新聞の論説には次のようにある。「与党も野党も決定的に勝たせない、というのが民意である」と。
どうみても恣意的というほかない。「民意」の便利使いである。自民党も立憲民主党も確かに議席は減らしたものの、その意味はまったく違っていた。共産党との共闘を企図した立民は、明らかに敗北した。自民の議席減は、前回選挙での野党の大混乱に起因する地滑り的勝利から通常水準に戻っただけで、それでも261議席の絶対安定多数を確保した。これは充分に勝利である。しかも小選挙区の当落は、この選挙制度と選挙戦略によるところが大きい。にもかかわらず、どうして「民意」を持ち出したいのだろうか。
理由ははっきりしている。そこに「国民の意思」というものを読み込みたいのだ。「意思」とはやっかいな言葉である。強い信念や信条がそこには示されており、確固たるものが暗示されている。その結果、「国民の意思」を人質にとれば、正当性が生まれる。朝日は、「民意」という言葉を無理やりに人質にとって、「自民一強体制」への批判を正当化しようとし、毎日は与党の勝利を認めまいとする。自らの主張を「民意」によって正当化しようとしているだけである。
もちろん、これは朝日、毎日という反自民系の新聞だけのことではない。与党支持派は、この結果を、自民による政治の安定こそは「民意」であるというであろう。ここでもまた「民意」を持ち出す。
もちろん、選挙は「民意」を問うものだということになっている。さして主張のない候補者に限って、自分こそは「民意を国会に届ける」と選挙で訴え、新たに選出された首相は、これまた必ず「民意を大事にする」というのが通例になっている。「民の声は天の声」といわんばかりに、政治家は「民意」にすり寄る。まさしく言霊憑依である。しかし、「民意」とはいったい何なのであろうか。なぜ誰もそれを問おうとはしないのか。
それも理由ははっきりしている。まともな政治家が本心から「民意」を信じているなどとはまず考えられまい。まともな政治家であれば、「民意」などというよりも前に、世界や日本社会についての自らの見解や信念があるだろう。また、マスメディアの政治部の記者やジャーナリストがこれまた本心から「民意」を正当なものと信じているとも思えない。その危うさなど、普段からいやというほど見聞しているだろう。政治家やジャーナリストがもし本当に民意など信じているとすれば、われわれは、とんでもなくナイーブで子供じみた情報環境に置かれているということであり、それこそが恐るべき事態というほかない。
ナチスドイツの示す教訓
にもかかわらず、われわれは「民意」なるものを偽装し、その前にぬかずき、そこで思考を停止する。どうしてそんなことをするのか。これも答えは簡単で、民意とは何かを問うことはまさしくデモクラシーとは何かと問うことであり、民意の正当性に疑問符を突き付けることは、デモクラシーの正当性を疑うことになるからである。
ところが、政治家もマスメディアも、まさしく、デモクラシーという土俵の上で仕事をしている。当然、この土俵を疑うわけにはいかない。土俵が崩れれば、彼らの存在意義もなくなってしまう。どんなりっぱな金魚でも金魚鉢が壊れてしまえば生きることはできない。だから彼らは、自らが信じてもいない「民意」なるものを、信じたことにするほかないであろう。この擬装によって、デモクラシーを成立させようとするのである。
ところが「民意」なる言葉を絶対化してしまったために、逆に、デモクラシーまでもが崩壊することもありうる。きわめて分かりやすい例をあげれば、1930年代のドイツでナチスは圧倒的な「民意」の支持を受けて政権をとった。そしてそれがデモクラシーを崩壊させたのである。
今日、われわれはナチスからも「民意」の危うさを学んだはずであり、それを無条件に信じることなどできるはずはない。にもかかわらずそれを手放すこともできない。こういう奇妙なディレンマに陥っている。本心では信じていない民意にすべてを委ねるほかないのであり、それが、今日の、政治への不信、政治の不安定、政治への無関心、政治のエンタメ化の核心にある。とすれば、これは「民意が政治を崩壊させる」というべき深刻な事態ではなかろうか。
情緒的かつ気分的に浮動するのが「世論」
今日の政治にあって「民意」は、通常、「世論」と同一視される。ほとんど毎月のように「世論調査」と称して、内閣支持率や政策支持率がマスメディアを通じて発表される。「民意」とは世論であり、具体的には世論調査に示される支持率の上下、左右へのゆらゆらした動きにほかならない。「世論」が、時には、国民の明確な意思の表示であることもないわけではないが、多くの場合、「世論」の中身はまったく不明であり、不定であり、不確かなものである。
一応、念のために、それなりに理性的で熟考された意見の集合を「輿論(パブリック・オピニオン)」と呼び、他方、その都度の状況に左右される人々の情緒的かつ気分的に浮動する意見の集合を「世論(マス・センチメント)」と区別しておけば、今日、「民意」において「輿論」を期待することはきわめて難しく、ほとんどの場合、「世論」に流されてゆくというほかなかろう。
「民意を聞け」「民意を実現せよ」という民意至上主義者は、世論を「パブリック・オピニオン」と見なそうとしている。だが本気でそう思っているのだろうか。現実には、多くの場合、それは「マス・センチメント」にほかならない。そして、「パブリック・オピニオン」と「マス・センチメント」は概念としては区別可能だとしても、現実にそれを見分けることは大変に難しい。見分けるべき者が大衆だとすれば、「マス・センチメント」に囚われた大衆にそれを見分けろというのは不可能である。そこでこの現実に対して、「民意至上主義」が適用されれば、実際には、「マス・センチメント」でしかないものを、あたかも「パブリック・オピニオン」であるかのように擬装することになろう。
しかもこの流れはほとんど文明の必然であって、それを逆転することは不可能に近い。なぜなら、今日の政治的な課題は、きわめて問題が多岐にわたりしかも入り組んだ「複雑系」になってしまったからである。
たとえば、グローバリズムのおかげで、多くの問題はもはや国内だけではおさまらない。他国の事情にも左右される。日本の経済状況は米中欧に左右される。ところが他方で、大多数の国民は、日々の仕事やその場限りの快楽の追求に忙しく、またおおよそ半径数メートルの身辺事項にしか関心をもてない。政策判断においても、おおかた、それが自分にとって得か損かの判断になるほかない。日常の損得勘定も、本当は、米中関係、世界情勢、イスラム・中東情勢とつながっているにもかかわらず、そんな「複雑系」を考慮することなどできない。
9.11テロの現場
半径数メートルの議論しかなかった総選挙
だから、この度の総選挙でも、ほとんど各党が共通して、格差の是正、賃金の引き上げ、子育て世帯への支援金支給などを公約にした。これは半径数メートルの議論である。しかし、その背後にあるグローバル競争、米中の経済覇権競争、経済成長の限界などという「複雑系」に属する議論は、公約どころかいっさい議題にもあがらない。世論はそんなものには関心はもたない。そこにはよいも悪いもなく、現実とはそういうものであろう。
だがそうだとすると、多くの重要な政治的課題に対して、人々に熟慮や理性的判断を期待することなどもとより不可能であって、しばしばリベラル系の政治学者が強調する熟議どころか、人々は、もっともらしく聞こえる意見、大多数の意見、分かりやすくも威勢のよい意見などに同調することとなる。大衆社会にあっては、人々の政治的意見など、せいぜい喫茶店で聞きかじったいいかげんな知識に過ぎず、それを政治で実現しようとしている、といったオルテガの皮肉な卓見は正鵠をえているのだろう。かくて気分やイメージが生み出す「空気の支配」が生じ、「空気」の流れを決めるようなおまじないの言葉が「臨在感的把握」の対象となる。しかも、SNSがますます無責任な情緒的な言説を発散するとなれば、「民意」が「輿論」ではなく「世論」になるのは当然の理であろう。
政治の現状をみれば、そのことを嘆きたくもなるものの、ただただこの状況を嘆いても致し方ない。問題の根はかなり深く、かつ深刻といわざるをえないからだ。問題の根が深いのは、先にも述べたように、「政治は民意に従うべき」という命題こそが今日のデモクラシーの根本となっているからである。だが、この至上命題は本当に妥当なのだろうか。
2015年の安保法案反対デモ
「民意」が支持した国際連盟の脱退
まず多少は歴史を振り返ってみよう。果たして「民意」は何をもたらしたのだろうか。
戦前では、日露戦争後のポーツマス条約に対して大衆が暴徒化した日比谷焼き打ち事件が、政治的な意味での「大衆」の登場の画期をなす出来事だといわれる。ロシアからの賠償金をとれないポーツマス条約に反対した新聞が大衆を扇動し、全権小村寿太郎の外交を批判して暴徒が日比谷公園に侵入し、東京各所を襲撃した。当時の日本の国力を考えれば、ポーツマス条約は大きな成果というべきであったにもかかわらず、「民意」はそれを攻撃した。
また、1933年の日本の松岡洋右首席全権による国際連盟脱退も「民意」の後押しを受けたものであった。当時の多くの識者は、脱退に反対であったにもかかわらず、大方の新聞は脱退論を唱え、「民意」は国連脱退の松岡外交を支持したのである。
さらに日中戦争直前に近衛文麿内閣が成立するが、これほど大衆世論に歓迎された内閣はめったにない。特に女性の人気が抜群であった。近衛の対中強硬路線は世論の後押しを受けたものであり、上海、南京への日本軍の侵攻は大衆的歓呼をもって迎えられた。第一次近衛内閣は、結局、中国問題の解決の糸口もつかめないまま1939年に退場するが、1940年に、再び国民的な人気を頼った第二次近衛内閣が成立する。しかしこの内閣が日米関係の調整に失敗して大東亜戦争への道をひらいたことはいうまでもない。
大正から昭和へかけては、まさしく日本における大衆社会の到来といった状況であった。大正デモクラシーや男子普通選挙による人々の政治への参加、新聞、雑誌、ラジオなどのメディアの展開がそれを生み出し、また後押しした。「民意」が政治を動かす時代となったのである。
戦後ともなればどうか。「大衆世論」と「現実政治」の衝突の見事な典型例は何といっても60年安保であろう。岸信介首相による日米安保条約の改定は、革新的新聞等のメディアや左翼知識人の執拗なキャンペーンもあり強力な反対にさらされた。私は小学校の5年生だったが、学校でいかに安保を阻止しなければならないかを「学習」した。「安保」とくれば「反対」と続く四文字熟語の時代であった。これほど「民意」の迷妄を示した例もあまりないであろう。今日、当時の岸首相の選択が誤りであったなどという論調はまずありえない。
岸信介(左)と正力松太郎(右)
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source : 文藝春秋 2022年1月号