「とにかく新鮮な頭蓋骨を探して来なさい」。好奇心旺盛で、人たらしだった。
「黙して、みんな墓場まで持っていく」
やっぱり、ここから書きはじめるしかない。
小林 三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。
江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものなんじゃないですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 (略)老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。
小林 あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。(略)それなら、吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫とは違うじゃありませんか。
三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に突入し、割腹自決したいわゆる「三島事件」の約半年後、文藝春秋のオピニオン誌だった『諸君!』(昭和46年7月号)に載った小林秀雄と江藤淳の対談の一部である。ただならぬ気配と裂帛の気合。巌流島の決闘にも似て、この対談はずっと文壇の語り草になっている。
ふたりは、この時、取っ組み合いの喧嘩をしたのだろうか。
編集長として対談に立ち会ったのが、今年の5月に亡くなった田中健五さん(享年93)だった。田中さんは、この問いに明確な答えをしていない。
『江藤淳は甦える』という大著がある平山周吉さんは、「『掴み合いにはなりませんでした』と田中さんは答えている」と書いた(中公文庫『小林秀雄 江藤淳 全対話』解説)。
私も、田中さんに「本当のこと」を訊ねてみたことがある。
「いや、対談が終わって、一杯飲もうと誘う江藤さんと連れ立って街に出たよ」
これだけしか教えてくれなかった。
もともと田中さんは、自分が参画したことを語ることが少ない人だった。
「編集者は、よくよく考えなければならない。これと見込んだ編集者に、物書きは誰にも言えないこと、お金のことや異性関係を相談することだってある。それをいちいち外に漏らしていたら、信頼されない。黙して、みんな墓場まで持っていく」
田中さんの部下になったころ、もう半世紀以上も前になるが、田中さんに編集者としてのモラルをこう教えられた。なるほどと思ったから、他の出版社の文芸編集者に伝えたら、「そんなことを言ったら、実感的な作家論などできはしないじゃないか」と猛烈に反発された。
田中さんはのちに『文藝春秋』編集長になり、立花隆『田中角栄研究―その金脈と人脈』と児玉隆也『淋しき越山会の女王』(ともに昭和49年11月号)を世に出し、田中内閣を退陣に追い込み、雑誌ジャーナリズムはじまって以来の快挙と喧伝された。その時も、
「特集・田中角栄研究は、正義感からではなく好奇心から発した企画である。新聞その他のマスコミが教えてくれないから本誌が企画するのである」
としか語っていない。
私は、文春に40年余在籍したが、人事異動の激しい会社だったから、編集者として田中さんの下にいたのはわずか6、7年に過ぎない。しかし、田中さんから受けた言葉は、才乏しくその期待に応えられなかっただけに、今もわが身に沁みついている。
田中健五氏
“頭蓋骨狩り”に街へ
入社早々のころ、自席で新聞を読んでいたら、「新聞くらい家で読んで来いよ」と田中さんに怒られた。
「会社に来たら、とにかく人に会うことだ」とさらに追い打ちをかけるものだから、むっとして「私には担当する作家がまだいません」と抗弁した。すると、田中さんは、
「友達でも誰でもいいじゃないか。その人の仕事のことや、文春の雑誌や本の評判など、何でもいいから聞いてくればいい」
と言った。自棄気味に、家業の精肉店を継いでいた学校時代の友人を訪ねた。肉を捌くには力がいる、そのためには肉切り包丁を手前に引かなければならないからと傷だらけの腹を見せてくれた。田中さんにそんなことを報告すると、
「物事を知るには、他人の経験と頭を借りることだ。人ひとりの頭脳などたかが知れている。10人の優秀な人を知ったなら、君ひとりで10個分の頭蓋骨を持ったことになるじゃないか。昼飯代などいくらでも出すから、とにかく、新鮮な頭蓋骨を探して来なさい」
とも言った。
昭和28年入社の田中さんは、府立一中(日比谷高校)、海軍兵学校、旧制東京高校、東大独文科という経歴のエリートだったが、ザッハリヒ(独語 sachlich)という言葉をたびたび口にした。「事実に即した」、とでもいう意味だろうか。
そのザッハリヒを実践するためか、田中さんは街によく“頭蓋骨狩り”に出かけて行った。書店も回っていた。『諸君!』の編集後記には、本屋訪問記が登場する。
「客の顔をして『諸君!はありませんか』と聞いたら『売り切れです』という。(略)急に面白くなって、銀座から新橋、虎の門一帯、しらみつぶしに書店まわりをした。十五軒中売切れ十一軒、打率八割弱である」(昭和46年8月号)
と嬉しそうに愛読感謝の弁を述べながら、それでいて読者の反響が物足りないと「今月は投稿に光るものがありませんでした。ちょっと寂しい気がします」と無茶振りをする。
こういうところがある人だから、15も歳の差がありながら、田中さんとの対話には可笑しさが先立った。
川上哲治が惚れこんだ
昭和46年のこと、出払って誰もいない『諸君!』編集部の編集長席の横の椅子に、胡麻塩頭を短く刈り込んだ黒縁眼鏡の老人が端然として座していた。
騒騒しい編集現場にはあまりに似合わない感じなので、「あのおじいさんは、誰?」と周囲に聞いてみた(この時、私は違う編集部に在籍していた)。
この人こそ、三島由紀夫の父、平岡梓さんだった。
田中さんは、編集後記でこう書いた(要約)。
「あれだけの事件のあとまだ一周忌もすんでいないのに原稿をお願いするのは心苦しかった。『伜・三島由紀夫』という表題を平岡氏から示されたとき、『少し愛想がなさすぎませんか』と私は言わでもがなのことを言った。『そうかもしれませんが、三島のことを伜と呼べるのは広い世界で僕ひとりなんですよ。誰がなんといったって、これは僕の専売特許なんですよ』と氏は語気を強めていった。
凡愚の私は今になってつくづく『いい表題だなァ』と思っている」(昭和46年12月号)
焼野の雉(きぎす)夜の鶴。珍しく(いや、稀有のことに)田中さんは、作品誕生の舞台裏を明かしている。この率直さが、田中さんの身上だった。
『文藝春秋』編集部にいた時、田中さんは、9連覇を果たしたのち、巨人軍監督を辞めた川上哲治さんの話を欲しがった。巨人番記者に探りを入れると、「川上さんは難しい人だから無理だろう」と言う。伝を探していたら、評論家の虫明亜呂無さんが学徒出陣した際、川上さんが直属の指導教官だったことがわかった。虫明さんが聞き手ならと川上さんは受けてくれた。(昭和50年2月号)
虫明 軍隊での川上さんの鉄拳はすごかった。人間が飛ぶんですね。
川上 殴るときは、だいたい一発でした。
虫明 パーンと、鉄腕アトムみたいに飛んだですよ。二メーターは飛びました。ただ、どういうわけか、ぼくは一度もされたことがなかった。
川上 連帯責任みたいなことで殴ったことはないんです。
もちろん、ОN論など野球論としてもこの対談は、今読んでも滅法面白いこと請合いだが、驚いたのは、川上さんが相槌を打ちながら聞き入る初対面の田中さんにすっかり惚れこんでしまったことだ。当時、文春近くにあった日本テレビを訪れた川上さんはたびたび、「コーヒー、飲みませんか」と、電話をかけて寄こした。田中さんは人たらしなのである。
例によって、田中さんは席を空けていることが多かったから、たいていは私が応接の栄に浴した。
「面白い話あった?」
田中さんは、対談や座談会のまとめ方も諭してくれた。雑誌編集者と新聞記者の仕事のやり方、仕方の違いを知るうえで興味深いことかと思うので、私のなかの「田中語録」から引いてみる。
「対談、座談会のまとめは、速記録に頼ってはいけない。対談の場の雰囲気を思い出しながら、原稿を新たに書くつもりでまとめていく。発言者は、こういうことを言いたかったのだろうかと疑問に思ったら、遠慮せずに加筆する。たとえそれが逸脱したことであってもいい。著者校正の際に発言者が訂正してくれるから心配はない」
ベトナム戦争の行方が気がかりな頃、田中さんは、司馬遼太郎、開高健、小田実という考えうる最高のメンバーで座談会を催した(『文藝春秋』昭和50年6月号)。飛び交う議論は4時間にも及んだが、場の空気を思い出しながら速記をまとめる作業は楽しかった。
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source : 文藝春秋 2022年8月号