全共闘運動の敗北の後に求められた理論的基盤 『世界の共同主観的存在構造』廣松渉

ベストセラーで読む日本の近現代史 第52回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
エンタメ 読書

 東京大学教養学部と大学院で哲学の教鞭を長く執った廣松渉氏(1933〜94)の比較的初期の著作だ。氏は、認識論、存在論、科学哲学、日本近代思想史などの分野で多くの業績を残した「知の巨人」である。同時にブント(共産主義者同盟)の理論家としても有名で、特定のセクト(政治党派)だけでなく、1968年から70年代初頭に全共闘運動が高揚した時期には、氏の著作が「バイブル」のような役割を果たした。

『世界の共同主観的存在構造』は、勁草書房から1972年に刊行された。本書は学術書で、政治的主張は展開されていない。ただし、廣松氏としては全共闘運動の敗北、新左翼が「内ゲバ」の時代に入って、大衆から浮き上がっていくような状況で、マルクス主義の革命性を取り戻す理論的基盤を構築する必要性を感じ、本書を準備したのだと思う。廣松氏の文体は独特で、漢語を多用する。そのため常に漢和辞典を参照しなくてはならないが、簡単に読み流すことができないので、テキストとの格闘を迫られ、その結果、深い次元での著者との対話が可能になる。

「主観―客観」図式の超克

 廣松氏は、〈われわれは、今日、過去における古代ギリシャ的世界観の終熄期(しゅうそくき)、中世ヨーロッパ的世界観の崩壊期と類比的な思想史的局面、すなわち近代的世界観の全面的な解体期に逢着(ほうちゃく)している。こう断じても恐らくや大過ないであろう。閉塞情況を打開するためには、それゆえ――先には“旧来の発想法”と記すにとどめたのであったが――“近代的”世界観の根本図式そのものを止揚(しよう)し、その地平から超脱(ちょうだつ)しなければならない。認識論的な場面に即していえば、近代的「主観―客観」図式そのものの超克が必要となる〉という基本認識を示す。物事を認識するときに主観(主体)と客観(客体)があるのは当然とわれわれは考えるが、これはドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724〜1804)以降の近代的流行に過ぎないのである。〈近代的「主観―客観」図式そのものの超克を云々するとき、早速に読者の反問が予想される。苟(いやし)くも「認識」について論考しようとするかぎり、「主観―客観」図式は、絶対に不可欠ではないのか? 認識論がいかに行詰ったからといって、この構図そのものを放擲(ほうてき)するわけにはいかないのではないか?/このような反問が生ずるのも、実は、主―客図式が“近代人”の既成的な先入見となり、それが“近代的”認識観の地平を劃しているからにほかならない。だが、あらためて想起を需(もと)めるまでもなく、「主観」「客観」なる概念は、近代を俟(ま)って初めて成立したものである。伝統的なsubjectum, objectumという言葉の意味内容を換骨奪胎(かんこつだったい)して「主観」「客観」というタームの今日的な用語法が確立したのは、かなり時代も降ってからのことである。古代や中世には、そもそも「主観―客観」などという発想そのものが存在しなかった。“近代的”な発想の地平に浸り込んでいるかぎり主観(主体)―客観(客体)という図式をぬきにしては「認識」はおろか、そもそも世界を了解することが、なるほど困難である〉

 仏教でもキリスト教でも合掌をするが、そのとき右手が左手を押しているのか、左手が右手を押しているのかという設問には意味がない。主体(押す)・客体(押される)とは別の位相で心理をつかむという発想が合掌に象徴されている。現代に生きるわれわれには皮膚感覚で追体験するのは困難だが、古代、中世では主体・客体とは異なる認識論的了解があったのだ。こういう了解は個人的なものでなく、掟や習慣として共有されていた。こういう人々の間で常識のごとく成り立っている認識を廣松氏は共同主観性と規定した。「主観―客観」図式が共同主観性であることを廣松氏はこう説明する。〈しかし、古代や中世の人びとがこのような図式をぬきにして“認識”についての一応の了解をもつことができたという事実に徴するまでもなく、原理的には「主観―客観」図式は「認識」を論考するために必要不可欠ではない。とりあえず、右のところまでは云っておくことができる。とはいえ、われわれはまだ、この「図式」に根強く捉えられており、今日、それに代えて認識を述定しうべき既成の概念装置を持合わせてはいない。現に、感覚や感情に至るまで本源的に社会的な形象(ゲビルデ)であることをいちはやく指摘し、社会的諸関係の総体として、具体的普遍としての人間が共同主観的に営む対象的活動、これに視座をとって認識を論じた有名なテーゼの継承者たちですら――当の始祖は「主観―客観」という用語法を注意ぶかく回避(かいひ)した形跡が認められるにもかかわらず――再びSubjekt-Objekt-Schemaに回帰してしまっている現実を思うにつけ、当の図式を超克することは、いかにも困難である。今日「主観―客観」図式から超脱することの困難たるや、かつて中世の人びとにとって「形相―質料」図式から離脱することが至難であったことになぞらえることもできよう〉

「形相―質料」図式とは、アリストテレスが展開した思想で、机と板の関係では、机が形相で板が質料だ。板と樹木の関係では、板が形相で樹木が質料だ。アリストテレス哲学を中世神学が採用したので「形相―質料」図式が、中世ヨーロッパの世界像においては自然のものとされていた。中世の「形相―質料」図式から近代の「主観―客観」図式へのパラダイム転換を研究すれば、近代的パラダイムを超克するヒントが得られると廣松氏は考えていたのだと思う。

 廣松氏は、マルクスとエンゲルスが生前に未発表の原稿『ドイツ・イデオロギー』(1845〜46年に執筆)で確立した共産主義によって新しいパラダイムが切り開かれたと考えるのであるが、『世界の共同主観的存在構造』では、共産主義論を展開することを抑制している。

当事者と反省者の視座

 本書における廣松氏の大きな業績はヘーゲルの『精神現象学』に独自解釈を加え、「当事者にとって(直訳では、彼にとって)」(für es)と「学理的反省者にとって(直訳では、われわれにとって)」(für uns)という二重の視座を示したことだ。当事者にとっての認識と、それを突き放して学知の反省を加えた場合の認識と評価は異なってくるということだ。廣松氏は、〈判断意味成体、すなわち、論理上の主語によって指示される外延的対象を論理上の述語によって述定される或るものetwas Anderes、述定的意味として二肢的構造成体として措定することにおいて存立する意味成体は、われわれの見地からすればfür unsつねに誰かとして二肢的な自己分裂的自己統一の相にある主体に帰属するが、当の判断意味成体の帰属する主体がその折の自己を判断主観一般として融即的に対自化したもの、意味成体に向妥当的なこの対自的意識事態が判断である〉と指摘する。筆者は2002年5月、鈴木宗男事件に連座して東京地方検察庁特別捜査部によって逮捕された。筆者、すなわち「当事者にとって」は、「外務省組織の命令に従って、北方領土交渉に命懸けで取り組んでいたのに何と理不尽なことか」という認識になる。しかし、「学理的反省者として」見るならば、政治権力によって富を再分配する日本型社会民主主義(角栄型政治)を効率重視の新自由主義に、地政学的勢力均衡論に基づく日露接近をイデオロギー重視の日米同盟中心主義に転換する「時代のけじめ」をつけるために、角栄型政治の後継者で、日露の戦略的提携を強化することによって北方領土問題を解決しようとした鈴木氏を排除する必然性があった。その過程で、鈴木氏につなげる事件をつくるために筆者が逮捕されたのだ。廣松氏の論理を援用することで、筆者は東京拘置所のかび臭い独房の中で自らが置かれている場を冷静に認識することができた。

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source : 文藝春秋 2018年01月号

genre : エンタメ 読書