歴史は進歩するというのは近現代人の常識にすぎない。それまでの人々は、歴史は循環を繰り返すが、時間の経過とともに世界は衰退していくと考えた。ハーバート・ジョージ・ウエルズ(1866〜1946)の『タイム・マシン』は、1895年に発表されたSF(空想科学)小説の草分けだが、人類は長期的には衰退するという悲観主義に基づいて書かれている。
1899年の末のある日、時間飛行家(タイム・トラベラー)から「私」と心理学者、医者、新聞の編集者、顎髭を生やした内気そうな男の5人が、80万年後の世界での体験談を聞く。そこでは、人類は地上人のエロイと地底人のモーロックに分かれていた。エロイは、支配階級の、モーロックは労働者階級のそれぞれ末裔ではないかと当初、時間飛行家は考えたが、それは誤りであったことに気付く。
〈どうも、地上人エロイは恵まれた貴族階級で、モーロックはその奴隷だとする仮定は間違いのようだった。かつてはそうだったかもしれないが、それはずっと昔のことだった。人類の進化の結果生まれた二つの種族は、新たな関係に入りかけていた。あるいは入っていたというほうが正確かもしれない。エロイたちはカロリング朝の王侯のように衰退し、ただ美しいだけの無能者になってしまった。彼らは相かわらず地上だけは所有していたが、それもモーロックたちが永年の地下生活のために光を極度に嫌うようになったためである。モーロックたちがエロイたちの服を作り、日常の必需品を与えているのは、昔からの奉仕の習慣の名残りだろう。(略)復讐の女神ネメシスはエロイに忍び寄っていた。はるか昔、数千世代も以前、彼らは同胞を地下に追いやり、太陽と快適な生活を奪ってしまった。そしてその同胞、すなわちモーロックたちは地上に戻りつつある。すっかり変わって! 既にエロイたちは身から出た錆(さび)、恐怖というものに再び直面しているのだ〉
ウエルズと第1次大戦
実は、エロイは食用肉としてモーロックによって飼育されていたのだ。元は労働者階級だったモーロックは、独自の進化を遂げて食人に抵抗がなくなってしまったのである。ここで「私」は人間の知性が持つ意味について考察する。
〈人間の知性がたどったはかない末路を思うと、ぼくは悲しくなった。知性は自殺をしたのだ。知性は快適さと安楽、そして安定と恒久性を標語に、バランスのとれた社会を目指してきた。そしてその目標に到達した後にこんなことになってしまったのだ。進歩の続いているある時代に、人間生活は完全に満ち足りた安定に達したにちがいない。そのとき富める者たちは彼らの財産と快楽、労働者は生活と仕事の充分な保証があった。雇用問題もすべて解決し、社会問題はなかった。その後には安定期がずっと続いたのであろう。/多面的な知性というものは、変化、危険、困難と引きかえに、人類が得たものだという自然法則をぼくらは見のがしている。環境と完全に調和した動物は完全な機械だ。習性と本能が役に立たなくなったときに、はじめて知性が必要になる。変化も、変化の必要もないところに知性は生まれない。さまざまの変化と必要性に、適応しなければならない生物だけが知性を持つのである。/そういうわけで、恵まれた地上人だったエロイたちは脆弱(ぜいじゃく)な美しさをそなえるようになり、地下のモーロックたちはただ機械的に働くだけの人間に退化した。しかしそんな状態もいつまでも続くものではない。時が経つにつれ、地下への食物の供給がうまく行かなくなったらしい。何千年ものあいだ身を隠していた必要の母というやつが、ふたたび生き返ったのだ。モーロックたちは機械を管理していた。ということはいくらかの頭脳を働かせる必要があったということである。したがって必然的にエロイたちよりは進取の気象を保ってきたのだ。そして他の食肉がなくなったときに、それまで習性によって禁じてきたことをやる気になったのだ。これはぼくが、紀元八十万二千七百一年の世界で目撃したことである〉
ウエルズの悲観的人間観が間違っていなかったことは、この小説が上梓された19年後の1914年に明らかになった。この年に第一次世界大戦が勃発したからだ。人間は知性を大量殺戮と大量破壊のために最大限に活用した。ちなみにウエルズ自身は、戦時中に英国の対敵宣伝委員会「クルーハウス」(Crew House)に勤務し、対独宣伝部長をつとめた。ただし、委員長のノースクリフ卿と対立し、「クルーハウス」を去る。
〈ウェルズは、「連合国側ではドイツ人が悪い悪いといい、ドイツ人はイギリス人が悪いのだと非難して、両方とも教会で同じ神さまに勝たせてくださいと祈っている。これでは単に喧嘩である。それでは、人類が進歩した現代として問題にならない。それゆえ、戦後、League of Free Nationsという民主的な国際機関をつくるのだと、将来の理想社会を示して宣伝しよう。そして、その民主的なルールを破る黒い羊がいるならば、その国を残りの国々で制裁するのだというのだ。そして、ドイツ皇帝がそのルールを破って起したのがこの戦争だから、みんなでドイツをやっつけるのだと説明する。これならりっぱに筋が通っているではないか」と主張したのである。これは、当時のアメリカとイギリスのごく少数の識者間でいわれていた意見である。/これに対してノースクリフは、「この戦争は、イギリスの生死の戦いである。戦後の理想のことなどはどうでもよい。連合軍が勝てば、われわれの思いどおりにするのだし、負ければドイツ人が自分の国際法をつくるのだ。それだから、敵を騙しても、どんな宣伝手段を使ってもかまわないから、勝たなければならない」と主張して、ウェルズに反対した。このノースクリフの意見は、いかにも現実主義者のイギリス人らしいものであった。/ウェルズは激論のすえ、「委員長がそんなお考えでは、私にはできません」といって、(略)わずか数か月で辞職してしまった〉(池田徳眞『プロパガンダ戦史』)。
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source : 文藝春秋 2018年02月号