監獄からみた昭和史/『破獄』吉村昭

ベストセラーで読む日本の近現代史 第54回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
エンタメ 昭和史 読書

「昭和の脱獄王」と呼ばれた白鳥由栄(1907〜79年)をモデルとした小説だ。主人公の佐久間清太郎は、1933年4月に仲間とともに強盗殺人事件を起こし、36年初めに一審で死刑判決を求刑されるが、同年6月に収監されていた青森刑務所から脱獄する。その後、佐久間は拘束され、一審と控訴審で無期懲役が確定する。それからも、刑務所の処遇に不満を持ち、42年に秋田刑務所から、44年に網走刑務所から、太平洋戦争後の47年に札幌刑務所から脱獄する。最も劇的なのが、網走刑務所からの脱獄だ。

〈最大の問題は、手錠と視察窓の枠がはずされたことであった。/署長も刑事も、眼にしたこともない頑丈な手錠に驚きの色をみせていた。鋼鉄製で、重さは四貫匁(かんめ)近くもある。戒護課長が、過去に二度も破獄歴のある特異な囚人なので鍛冶工場でつくらせた特製手錠である、と説明した。/かたくしめつけられたナットが、どのような方法ではずされたのか、刑事は入念にしらべた。ナットは深くうちこまれていたが、床におかれたナットをしらべてみると、意外にも腐喰していた。その腐喰の度合は、長い歳月を経なければそのような状態にはならぬはずであった。刑事は、ナットを見つめ、指先でふれ、表面に湧いている錆をなめた。/獄房の中がさぐられ、刑事は、湯呑み茶碗に眼をとめた。底にわずかではあったが、茶色い液がのこっていた。それを嗅ぎ、指にふれてなめた刑事は、/「味噌汁だ」/と、つぶやくように言った。/看守長たちは、刑事の顔を見つめた。味噌汁が、はずされたナットとどのような関係があるのか理解することができなかった。/刑事は再びナットの錆をなめ、腐喰の原因を断定的な口調で説明した。佐久間は、毎日の食事の折に味噌汁を少し飲みのこしては湯呑み茶碗に入れ、それを看守の眼をぬすんでは手錠のナットにたらすことをくりかえした。味噌汁にふくまれた塩分がナットを酸化させ、やがて腐喰してゆるみ、ひきぬくことができたのだ、と言った。/ついで、視察窓の調査にとりかかった。視察窓には鉄枠がはめられ、それが上下左右に計十本のネジで扉にかたくとりつけられていた。房内にはネジとともにはずされた鉄枠がおかれていたが、ネジにも腐喰がみられた。/刑事は、ネジの錆をなめ、/「これも味噌汁だ」/と、言った。/看守長たちは、呆然として立ちつくしていた。刑事のするどい推理に驚きを感じるとともに、佐久間が根気よくナットとネジの腐喰につとめ、特製手錠を開錠し、視察窓から脱出したことに空恐しさを感じていた。〉

 味噌汁の塩分を用いて金属を腐食させるという知恵に加え、佐久間の場合、頭さえくぐり抜けることができれば、肩の関節を外して抜け出す特殊な才能を持っていたので脱獄が可能になったのだ。ちなみに筆者は、鈴木宗男事件に連座して東京拘置所の独房に512日間、勾留された経験がある。2003年から用いられた新獄舎の独房には、鉄格子や金網はないが、ハンマーで思いっきり叩いても割れない強化ガラスがはめられている。外部に対して開いているのは、食事を出し入れする小窓だが、幅が30センチ、高さが15センチくらいなので、頭をくぐらせることはできない。現在の東京拘置所からは、佐久間のような特殊な才能を持つ人間であっても脱獄することはできないであろう。

一般国民より多かった主食

 本書は、監獄という特殊な場所から見た昭和史でもある。1944年8月1日から、刑務所で与えられる食事の量が変化する。

〈その月の一日から、全国の刑務所で囚人にあたえられる主食の量に変化がみられた。/一般国民の米の一日当り配給量は二合三勺(じゃく)で、軍需工場で重労働に従事する者は四合であった。が、戦争の激化にともなって、朝鮮、台湾、タイ、ビルマ、仏印から移入されていた米は、海上輸送の道が断たれ、内地米だけでは配給量すら確保できない状態になっていた。それをおぎなうため米の配給量をへらし、薯(いも)、豆、雑穀が代用されていた。そうした食糧事情のなかで、各刑務所では米四、麦六の割合で一日六合をあたえていたが、五万名近い全国刑務所の囚人にその量を配給することが不可能になった。農林省は、司法省に対して一般国民の倍以上の主食を囚人にあたえるのは矛盾しているという意見を出し、司法省は囚人の感情を安定させるには今まで通りの主食の量を確保することが絶対に必要だ、と反論していた。が、食糧事情の悪化は深刻で、農林省の主張に応じざるを得なくなったのである。/新しくさだめられた主食の量は、米・麦を四合五勺にし、へらした一合五勺はそれに相応した量の大豆によっておぎなうことになった。この実施にそなえて、農林省食糧管理局は満州産の大豆十カ月分を司法省にわたした。〉

 囚人の食糧事情の方が、看守よりも良好なのである。筆者のように獄中生活の経験があると、欲望を厳しく制限された状況にある人間の心理がよくわかる。獄中では食に対する欲望が異常に肥大する。食事量を減らすようなことになれば、囚人が反発し、暴動すら発生しかねないことが看守には皮膚感覚でわかるのだ。ちなみに佐久間は、懲罰で何度も減食処分になるが、現在の拘置所や刑務所ではいかなる処分を受けても、減食になることはない。この点では、戦前、戦中と比較して、現在の刑務所では人権がより尊重されるようになったということなのであろう。

 感動的なのは、府中刑務所長の鈴江圭三郎が、佐久間と人間として誠実に向かい合う場面だ。鈴江は、その気になれば脱獄が可能な炊事を佐久間に担当させる。脱獄しないわけについて2人の間でこんなやりとりがなされる。

有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。

記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!

初回登録は初月300円

月額プラン

1ヶ月更新

1,200円/月

初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。

年額プラン

10,800円一括払い・1年更新

900円/月

1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き

電子版+雑誌プラン

12,000円一括払い・1年更新

1,000円/月

※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
雑誌プランについて詳しく見る

有料会員になると…

日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!

  • 最新記事が発売前に読める
  • 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
  • 編集長による記事解説ニュースレターを配信
  • 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
  • 電子版オリジナル記事が読める
有料会員についてもっと詳しく見る

source : 文藝春秋 2018年03月号

genre : エンタメ 昭和史 読書