東大新聞の広告主を新規開拓
私も大学時代、某クラブに所属して、学園祭のパンフレットを作る費用を捻出するために広告取りを命じられましたから、その苦労は知っているつもりです。それは新入生に課せられたノルマで、前年のパンフに広告を出している企業を回って「今年もお願いします」とやるのです。しかし江副さんの発想は違った。あらたに広告主となってくれる会社を新規開拓したのです。そのために彼は何をしたか?
彼は、「一般紙を下から読め」という先輩の言葉を忠実に実行しました。日経や朝日といった新聞を下から読む、つまり広告を打っている企業の傾向を調べることによって、今、どんな産業が発展しようとしているのかがいち早く把握できます。まだネット社会ではないのでネット広告はありません。テレビ広告は費用がかさみます。そんな時代の広告媒体は、企業にとっては新聞が一番。社員を採用する場合も、当時の真面目な学生は新聞を読んでいるのが常識でしたから、新聞に募集広告を出せば優秀な学生が獲得できるだろうというわけです。
江副さんは広告取りに懸命で学生運動には目もくれませんでした。東大の女子学生の樺美智子さんが国会での抗議デモで命を落したときも、彼は「やじ馬で国会へ行っただけ」。彼を称して私が「イデオロギーなき東大生」と表現するのも、そういうことなのです。とはいっても、彼には、時代の転換点において時代を見透す眼があったのは確かだと思います。
“株屋”とさげすまれていた証券会社に「東大生を採用しませんか?」
1960年の日米安保条約改定を境にして、日本社会は政治の季節から経済の季節へ転換しました。池田勇人が登場し、高度経済成長と所得倍増を謳いあげます。
衆院選のテレビCMに出てきた池田総理が言いました。「皆さんの所得を10年間で倍にします。私は嘘を申しません」。まだ純情な小学生の池上クンは「不思議なことを言うな」と思いました。総理大臣みたいなエライ人がわざわざ「嘘をつかない」と言うなんて……。大人になって初めて、政治家も嘘をつくことをようやく知ったわけです。
話を戻します。こうして高度経済成長になりますと、「銀行よさようなら。証券よこんにちは」と大キャンペーンが張られます。貧しかった50年代には銀行による貯蓄キャンペーンが張られたものですが、60年代、70年代になりますと、これからは投資の時代だというわけです。東京証券取引所には上場する企業が次々に現れ、新規株式が公開されます。これを買おうじゃないか、というのが証券の一大キャンペーンです。
まだ証券会社やその従業員の社会的地位は非常に低く、「株屋」と呼ばれてさげすまれていました。最近も麻生財務大臣が「株屋」呼ばわりして物議をかもしましたけれども、麻生さんの意識ではいまだにそうなんでしょう。ともかく、東京大学の学生が証券会社に目を向けるなんてことも、まずなかったし、証券会社の側も東大卒を採ろうという発想がありませんでした。
ところが江副さんは、証券会社を回って「東大生を採用しませんか? 東京大学新聞に広告を載せませんか?」と口説いたのです。ある証券会社が広告を出す。それを持って江副さんは別の証券会社を訪れる。ならば、うちも、うちも、ということになったのです。彼は、高度経済成長の波にうまく乗ったとも言えるし、東大ブランドをうまく生かした、ということにもなるでしょう。