日本の紙幣が20年ぶりに刷新されることになった。
新5000円札の表のデザインには、津田塾大学の創設者として知られる津田梅子(1864~1929)。日本初の女子留学生でもあった。日本社会に失望したこともあったが、仲間の支援を得て、自らが理想とする学び舎を立ち上げた。
ノンフィクション作家の石井妙子氏が、波乱万丈の人生をつづる。
(出典:「文藝春秋」2017年4月号)
留学生は全員が佐幕派の侍の娘たちだった
「もうあと1日です。到着は目の前です。私の肉親―家族はいったいどんな人たちなのかしら。(中略)明日、私の人生の新しいページがめくられます。どうか、素晴らしいものでありますように!」(大庭みな子『津田梅子』より引用)
梅子の胸の高鳴りが伝わってくる。11年ぶりに祖国の土を踏むのだから無理もないだろう。彼女をこれまで育ててくれたアメリカの母、ランマン夫人に宛てて横浜港に船が近づく中、英文で書き綴った手紙の一節である。
日本初の女子留学生として1871(明治4)年、わずか6歳で海を渡った梅子。父の津田仙は旧幕臣で外国奉行の英語通弁として活躍した人物であったが、大政奉還により失職。幼い娘に新時代の夢を託した。梅子に限らず女子留学生に応募した5人は、全員が佐幕派の侍の娘たちだった。
「親の期待と国の期待とを背負って5人の少女たちは、アメリカに渡りました。年長のふたりがほどなく帰国し、最年少の梅子、永井(瓜生)繁子、山川(大山)捨松の3人が残り、それぞれ知識階級の堅実なアメリカ人家庭に引き取られました。幼いながら国費留学生の責務を感じており、学業成績は皆、極めて優秀。3人はアメリカで培った知識と学問を生かし、将来は日本の女子教育に身を捧げる覚悟でした」(捨松の曾孫で、『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』の著者、久野明子氏)
明治15年に帰国した17歳の梅子は日本語をすっかり忘れていたが、父親の仙とは幸い英語で会話すればよかった。暖かい家族の歓迎を受けて感激するものの、すぐにでもお国のために働きたいと思っていた梅子は、政府から何の音沙汰もないことに落胆する。
「帰国した男子留学生には役人や大学教授のポストなどが用意されていたのに、文部省は梅子ら3人には働く場を準備することすらしませんでした。また、日本女性の地位の低さ、高位高官が平然と花柳界で遊ぶ姿を見て、アメリカのピューリタニズムの中で育った彼女たちは大きなショックを受けます」(同前)