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槇原敬之50歳に 薬物復帰から平成一のヒット曲『世界に一つだけの花』を生むまで

2019/05/18
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大学受験に失敗……“3浪生”から上京

 もっとも、プロになりたいという気持ちはほとんどなかったらしい。むしろ「趣味で音楽をやっていたい、なおかつ自由になる金がほしい」という気持ちのほうが強かった(※4)。高校2年だった1986年にはCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)のオーディションを受けているが、それもグランプリになって賞金が入れば、いい機材が買えるとの思惑からだった。結局、このとき合格したのはユニコーンとエレファントカシマシで、槇原は選から漏れる。

 高校卒業後、大学受験に失敗。それから浪人すること3回、どうしても大学に行かせたい母親との軋轢から家出したこともあった。この間、出版社のリットーミュージック主催のオーディションに曲を応募する。このときも目当ては賞品のサンプリングマシーンだったが、一方で、これでだめだったら音楽はきっぱりあきらめようとの思いもあったという。

 オーディションに応募した楽曲「NG」は最終審査まで残り、1990年3月に行なわれた本選でグランプリを獲得。槇原はこの曲を表題としたシングルとアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』で同年10月にデビューを果たす。デビューが決まって上京するとき、母親には《とりあえず、自分が作った歌で人の役に立ちたいんだ》と告げたという(※4)。大学受験でも翌91年春、青山学院大学に合格した。

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1991年9月のライブで

紅白で一年の思い出を訊かれ「大学合格」

 最初のヒット曲となった「どんなときも。」は、受験がすべて終わった直後、映画『就職戦線異状なし』の主題歌として1週間でつくったものだった。その年末に初出場したNHKの紅白歌合戦では、槇原が司会者から今年一番の思い出を訊かれ、一言「大学合格」と答えていたのを思い出す。

1991年6月に発売された「どんなときも。」、オリコン週間1位を獲得

 槇原敬之は作品を、詞から先に書く。《詞さえできれば、曲は言葉から自然に生まれてくるので、完成まではもうあっという間》だという(※5)。彼はまた、曲づくりについてこんなことも語っている。

《僕は言葉がないと曲が書けないんです。だから、僕は自分のことをミュージシャンだとは思っていなくて、翻訳家というイメージなんですよ。例えば普段の会話で、「今の話、すごくいいな」と感じたら、それを音楽という形に翻訳して人に伝える人なんです》(※6)