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1985年、一枚のタオルと清原和博によって“自分のチーム”を得た僕は、無敵になった

文春野球コラム ペナントレース2019

 1985年。あの夏も僕は野球を見ていました。軽量鉄骨造、2Kのアパートに両親と3人暮らし。それまでは宮城県仙台市内にあるマンションの高層階で暮らしていたものが、両親の実家がある岩手県に急に転居することになり、薄い鉄板の階段がやかましい「犯人の住むアパート」のような建物の2階に移り住んだのです。部屋の外に置く洗濯機。歩くだけで下の階から苦情がくる息苦しさ。親子が肩を寄せ合う暮らしでした。

 幼くて当時は何もわかっていませんでしたが、何やら起きていたのだろうと今になってみればわかります。面倒臭がりで出不精の母親は家を出てパートを始め、父親は逆に家にいる時間が増えました。母親がプランターで枝豆とプチトマトとイチゴを育て始めたのもその頃でした。当時よく食べていたオヤツは、サンマの背骨をカリカリに焼いて噛み砕けるようにしたもの。「カルシウムが摂れる」と母親は言いましたが、それは「骨せんべい」というよりは「骨」でした。

 エアコンなどありはしなかったので窓を開け、アリの観察をして過ごした夏休み。旅行や遊びに出掛けることもなく、「つくば万博に行きたい」という僕の希望は「面白くないと思う」という父親の一言で一蹴されました。代わりの提案はお互いになく、僕はそれですんなりと引き下がりましたが、父親はひどくつまらなそうでした。

何もない夏休み。野球が、清原和博が、僕の空白を埋めてくれた。

 そんな僕の楽しみは野球を見ることでした。今は100チャンネル以上もの選択肢があるテレビですが、当時僕の家で見られたのはわずか4チャンネル。地域性もあってフジテレビ系列とテレビ朝日系列は映らず、NHK総合・教育と日本テレビ系、そしてTBS系だけで時間を埋めていました。昼はNHKで高校野球を見て、夜は日本テレビで巨人戦を見る。そんな暮らし。

 僕はPL学園を応援していました。おなじ東北のよしみで見守っていた東海大山形を29得点で粉砕したPLの圧倒的な強さ。アルプススタンドに描かれる美しい人文字。「あーあーピーエルー、ピーエルー、とわのーがーくーえーん」の校歌。そして何よりも清原和博。大きく、強く、明るい清原。夏の太陽のような青年が描く特大アーチと、八重歯がキラリと光る子どものような笑顔。決勝戦、起死回生の同点弾を放てば両手を突き上げての屈託のないガッツポーズ。清原は僕が初めて心に抱いた「ヒーロー」でした。チャンスに強い男でした。カッコよかった。最高でした。

 夏も終わろうかという頃、我が家にはさらなる転居話が持ち上がっていました。今は岩手県宮古市に吸収されてしまった川井村という場所にある、母親の実家に住まわせてもらおうかという話でした。「来月にも引っ越すのだ」という両親の話を聞いた僕は、学級会でお知らせをしたりもしました。「ばあちゃんの家」は牛を飼い、タバコを育てる農家でした。家の前を流れる川で遊ぶのは楽しいけれど、虫が苦手な僕は好んで行きたいとも思わない場所でした。それに「ばあちゃんの家」はテレビがNHKしか映らなかったので、それがすごく嫌だなぁと思ったことを覚えています。

我が家にやってきた一枚のタオル。それは西武グループの証。

 しかし、決まったはずの引っ越しは急に取り止めになりました。子ども心に学校でバツは悪かったものの、テレビのチャンネルが減らずに済んでとても嬉しく思いました。再び毎日出掛けるようになった父親は、ある日一枚のタオルを持ち帰ってきました。そのタオルには大きなライオンの顔が描かれていました。そしてLionsの文字が。現在はもうない、西武オールステート生命という保険会社でガイコウの仕事を始めたという父が、契約者に配る用の粗品を持ち帰ってきたものでした。

 家の事情はくわしく知らなかったものの、それが転居を中止させ、我が家を少し明るくしてくれた「何か」であることは感じていました。そして、そのライオンのマークと「西武」という冠は何だかとても素晴らしく誇らしいものに思えたのです。堤義明氏が世界一の富豪へとのぼりつめて行ったバブル景気を、それが「バブル」であるなどとは露知らず、「ウチは世界一の西武グループの一員なんだぞ」と鼻を高くしたのです。

 西武グループの一員であるところの僕が、西武ライオンズを意識するまでに時間はかかりませんでした。テレビで映るのは巨人戦ばかりではあったけれど、「西武ライオンズは我がグループの仲間」だと思っていました。そのうっすらとした同族意識のなかで迎えた運命のドラフト。西武ライオンズは6球団競合の末に清原和博を引き当てたのです。清原に太陽の笑顔はまったくなかったけれど、僕は大喜びをしていました。「僕の西武グループ」に「僕のヒーロー」がやってきたのですから。そして、これは運命なんだ、このチームは僕のチームなんだと気づいたのです。

意中の球団から指名されず、涙をこらえて記者会見する清原和博 ©時事通信社

 これが望まれざる出会いだったとしても。