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デビュー後にストレスで2度の入院

 大阪に生まれ、熊本で育った森高は、1986年に「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」でグランプリを受賞。翌87年5月、シングル「NEW SEASON」で歌手デビューした。当初から、所属事務所もアーティスト路線で売り出す方針だったものの、映画やドラマに出演したり、かと思えば着ぐるみを着てバラエティ番組に出たりと、アーティストともアイドルともつかない時期がしばらく続く。どこか矛盾を感じながら活動を続けるうち、ストレスで2度も入院してしまう。この経験から、のちに彼女が詞を書いて、3枚目のオリジナルアルバム『見て』(1988年)に収録したのが「ストレス」という曲である(翌年、「ザ・ストレス」というタイトルでシングルカット)。すでに作詞には、同年の2ndアルバムの表題曲となった「ミーハー」で挑戦していた。このころの詞の書き方について、後年、彼女は次のように語っている。

《歌詞は、狙う感じはまったくなかったです。逆に狙ったらああは書けないですよ(笑い)。歌詞の書き方を何も知らずに始めたので、自分が考えたことを普段使っている言葉で詞にしていっただけなんです。でもそれが結果的に“変わってる”と周りの人が面白がってくれた。私には『臭いものにはフタをしろ!!』とか“怒りソング”がありますけど、思ったことを口に出したらまずいけど歌詞ならいいかなって書いた曲たちです。書いた時点で『あー言えた、スッキリ!』って感じでした(笑い)》(※1)

1991年2月、21歳のときのコンサート。このころにはオリコンチャート上位の常連になり始めていた

「短すぎる!」と止められたミニスカート

 これと前後して、各地でのコンサートや学園祭への出演が森高を成長させていく。デビューの約3ヵ月後、渋谷のライブハウスでの初ライブで、自分のパフォーマンスに観客が反応して盛り上がってくれる、その空間に楽しさを見出し、《私がやりたいのはライブなんだと、はっきりわかった》という(※1)。

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 スタッフから「短すぎる!」と止められたというミニスカートをはじめ、コンサートやテレビで見せる派手な衣装も話題を呼んだ。本人によれば、当時はバンドブームなどがあり、《女の子でソロでやっていくには、とにかく目立たなきゃいけない。(中略)だったら衣装をハデにしよう、と。それだけの単純な理由だった》とか(※2)。そんな何気ない工夫が、ユニークな曲とあいまって、アーティストでもアイドルでもない、「森高千里というジャンル」を確立していく。

 1993年にリリースした「渡良瀬橋」はいまなお名曲といわれ、モチーフとなった栃木県足利市の渡良瀬橋には歌碑も建った。橋の架かる渡良瀬川を見つけたのは、作詞の構想を練るなか、夕日がきれいで近くに川が流れている情景が浮かんだので、響きのいい川の名前はないかと地図帳を広げたときだった。その後、何度か現地を訪れて歌のストーリーを固めていったという(※3)。

1997年11月、28歳のときのライブ