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映画『ジョーカー』が決して哀れな転落物語ではなく、”ハッピーエンド”である理由

2019/10/21
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 アーサーは劇中でいくつかの大きな選択肢に直面する。私はこの映画を観てから3日間、彼の行動を変えることでもっと彼にとってハッピーな結末にできないか、ずっと考え続けた。しかしできなかった。

 IFの世界のアーサー達は、本編を超える幸せを掴むどころか、その多くが悲惨な結末を迎えていった。つまり本編で描写されたのは、アーサーの取った行動と様々な偶然が絶妙に絡み合い奇跡的に現出した「トゥルーエンド」なのだ。一人の「ジョーカー」の背後に、「ジョーカー」になれなかった無数のアーサー達が蠢(うごめ)いている。

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「ジョーカー」を見て気づいた3つのこと

 私個人としては、このサクセスストーリーから多くのポジティブなメッセージを受け取った。自分らしく生きることの大切さ。夢を持ち、その実現のために諦めず努力し続けることの素晴らしさ。自らの過去とひるまず対決することの重要性。そしてそれらの先にこそ、自分にとっての本当の「ハッピー」があるのだということ。数えればきりがない。

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 以下では、特に印象に残った3つの具体的なエピソードに焦点を絞り、それを受けて私が具体的にどう行動したかをそれぞれご紹介したい。

 1つ目は、アーサーが向精神薬の服用をやめることで、自分らしく輝き出すところである。序盤のアーサーは「幸せなど一度もなかった」のであり、「つらいのはたくさんだ」と更なる向精神薬の増量を求めるが、彼のつらさが改善することは無い。ところが、皮肉にも向精神薬の供給が絶たれてしまったあたりから、アーサーはむしろ生き生きとし始める。向精神薬をやめてから気分が良くなったと言うアーサーは、「僕はずっと自分が存在するのか分からなかった。でも僕はいる」「これが本当の僕だ」という境地にまで到達するのだ。

 確かに社会の側から見れば、服薬していた時のアーサーの方が、服薬をやめた後のアーサーよりも、御しやすく「望ましい」人物だったかもしれない。しかしそれは、彼の主観的なハッピーには結び付かなかったのだ。

 彼はある意味、7種類の向精神薬を「飲む」のではなく「飲まされていた」。私がこの映画を観て帰宅した後最初にしたことは、処方された9種類の向精神薬を全てゴミ箱にぶち込むことだった。

 2つ目は、アーサーの担当カウンセラーが、彼の話を一切聞かず定型的な質問に終始していたところである。私も似たような経験があるので、アーサーの苛立ちがよく分かる。

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 ある日私は、メンタルクリニックでカウンセラーに、人間関係における他者性が与える苦痛についての悩みを打ち明けていた。こういうことを話すのはすごく勇気が要るし、あらかじめ話すことを考えていくだけでも精神的な体力を削られる。私のように内気で口下手な人間ならなおさらだ。それでも決死の覚悟で10分ほど話しただろうか。するとカウンセラーは言った。

「首の後ろに手を当ててみて下さい。そうすると、じんわりとした温かさを感じるでしょう? 副交感神経が活性化されて、穏やかな気持ちになれますよ」

 人間関係の話をしたら首の後ろに手を当てなさいと言われるなんて、なかなかパンチの効いたギャグだ。私がこの映画を観て帰宅した後2番目にしたことは、全てのカウンセリングをキャンセルすることだった。