3つ目は、アーサーが自らの脳障害が虐待によるものであることを病院の記録から突き止め、虐待に加担していた母親に復讐を果たすところである。このできごとがあったからこそ、彼は偽りの絆から解放されて失うものがなくなり、前述のような「ジョーカー」としてのハッピーエンドを迎えることができたのである。
前述の通り、私は脳性麻痺で、幼少期は毎日のように親から殴られ、時には時計で殴られて歯が折れたこともあった。ところで、脳性麻痺というのは脳が何らかの原因で損傷することで起こる障害である。その点ではアーサーと私は同じだ。私はいつ何故脳が損傷したのか、親に聞いたことがあるが、教えてくれなかった。
もちろん、脳性麻痺はどの時点で脳が損傷したのか分からない場合も少なくない障害だ。だがもしかしたら、私はずっと因果関係を逆に取り違えていたのかもしれない。つまり、「脳性麻痺だから虐待されていた」のではなくて、「虐待されたから脳性麻痺になった」可能性に思い至ったのだ。私がこの映画を観て帰宅した後3番目にしたことは、自分が生まれた病院に電話を掛けることだった。
不条理という名のギャグは、盛大なオチに向けた前振りだ
そろそろ不快になってきた方もおられるだろう。そういう人はこう思うかもしれない。「それで、オチは?」
残念ながら現時点では「オチは無い」。だが、喜劇王チャップリンの言葉を思い出してほしい。
「人生はクローズアップで見ると悲劇だ。しかしロングショットで見ると喜劇だ」
この言葉は、アーサーだけでなく私やあなたにも当てはまる。私やあなたが人生で体験してきた不条理という名のギャグは、全て盛大なオチに向けた前振りなのだ。アーサーは「ジョーカー」になることでオチを付ける他なかった。自分の人生のオチは、自分で決めるしかない。私の人生には、どんなオチを付けようか。そして、あなたは?
最後に、映画「ジョーカー」を象徴するセリフで締めくくりたい。
「喜劇なんて主観さ」