そんなとき、見ず知らずの人から便りがきた。「自分は東北に住む老人である。『武士の家計簿』を読み映画も見た。実は、自分の町吉岡宿にこんな話が伝わっている。涙なくしては語れない。ほんとうに立派な人たちの話である。この人たちの無私の志のおかげで、わたしたちの町は江戸時代を通じて、人口も減らず、今にいたっている。磯田先生に頼みたい。どうか、この話を本に書いて後世に伝えてくれないだろうか」。そういう内容であった。差出人をみると「宮城県黒川郡大和町吉岡・吉田勝吉」と書いてある。はじめは奇妙だと思った。ところが、妙に気にかかる。わたしは引き込まれるように調べはじめた。東京大学農学部の図書館で仙台叢書を閲覧し『国恩記』という詳細な記録をみつけた。『国恩記』の内容は想像を絶していた。読んで泣けた。わたしは歴史学者でもあるから、古文書を読むときは、たいてい冷静である。これまで、古文書を読みながら、はらはらと両眼から涙を流すなどということはなかった。穀田屋(こくだや)十三郎・遠藤甚内という恐るべき兄弟がみちのくの吉岡宿におり、ひろい視点で物事を考えていたことを知った。この世にもともと他人事というものはない。みんなで幸せになれる手段(たずき)を模索していた。この兄弟に江戸時代の社会矛盾をはっきり認識した高い思想を感じた。
吉田勝吉さんに会いに行こうと思った。ところが、あの大震災が起きた。大和町は停電し町長がパン工場に電話をかけて食料を確保し、町民の飢えをしのぐほどの事態になった。落ち着いてから、わたしは吉岡へ行き吉田さんを探した。「元町議の吉田さんは……」。ところが、そういうと町の人の顔が曇った。震災で亡くなったのかと血の気が引いたが違った。「吉田さんはご病気が重くて……」。入院されたのだという。わたしは吉田さんがこつこつ編纂されたという『国恩記覚』という冊子を手渡され、仕方なく東京に帰った。新幹線のなかでむさぼり読むと遠藤甚内の墓石の拓本までとっていて老人の執念が感じられるまさに労作の史料集であった。わたしは憑かれたように『無私の日本人』を書いていった。ようやく本が書きあがって「あとがき」を書いていたそのとき、大和町教育委員会から知らせがきた。「吉田勝吉さんが亡くなりました」。とうとう会うことはかなわなかった。あとできけば、吉田さんは生涯かけて『国恩記』の史料を集めてこられたという。死の足音を感じて、バトンをわたしに渡したのだろう。『無私の日本人』は書こうと思って出来た本ではない。いまのままではいけないと憂うる人の心が、わたしに自然に書かせた本である。