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「え、そのキスシーン必要?」「血縁主義」に回帰してしまった『スター・ウォーズ』最新作への違和感

女性主人公は旧作の価値観との闘いに敗北した

2020/01/05
note

 『スカイウォーカーの夜明け』には、この三部作を支配すべきだったのとは異質なロジックが入りこんできたように思えてならない。

 前作『最後のジェダイ』では、レイは「何者でもない」ことが確認されていた。つまり、前の二つの三部作を支配していた血縁主義(フォースを操る力は遺伝による)を、この三部作、もしくは少なくとも『最後のジェダイ』は否定しようとしていた。

 それを象徴したのが、『最後のジェダイ』の最後のカットである。そこでは奴隷として使われている少年が箒をフォースであやつるカットが挿しこまれている。「フォース」は血縁に制限されるものでないかもしれない。それが一種の希望のトーンとともに提示された。(というわけで、私は続三部作の中では、ファンに最も評判の悪い『最後のジェダイ』が最高の作品だと評価したい。この作品は少なくとも何か新たなものを創りだそうと挑戦した。) 

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 ところが『夜明け』はその全てを引き戻す。どこに引き戻すかといえば、前三部作の血縁主義にである。レイは悪役で強力な闇の力の持ち主であるシス卿パルパティーンの孫であったことが明らかとなり、物語はレイがその悪夢の血縁を乗り越えて、フォースの表の面を象徴する「スカイウォーカー」を名乗ることで大団円を迎える。 

 そしてなんと言っても『スカイウォーカーの夜明け』に対する私のもっとも大きな失望は、最後の、レイとカイロ・レンのキスシーンであった。私はこの場面に「それはないだろう!」と声を出しそうになった。ひょっとしたら実際に出したかもしれない。(ちなみに、もう一箇所同じ声を上げそうになったのはハックス将軍にまつわる場面だったが、これはまったく別の話。) 

『スカイウォーカーの夜明け』でカイロ・レンを演じたアダム・ドライバー ©Getty Images

 私は正直、レイにあのような異性愛的な決着(つまり男と結びつくことによる決着)が用意されているとはまったく予想していなかった。そのような決着は、ここまで述べたようなレイのポストフェミニズム性とはまったく相容れないからである。この物語がレイの成長であれ、自分探しであれ、何でもいいのだが、主体形成の物語であるとして、その主体形成が男とくっつくこととはまったく違うところで行われるようなロジックで、この作品は出来上がっていたはずだ。 

 ファンの間にはレイとカイロ・レンの結びつき(「レイロ(Reylo)」という造語もある)を待望する声があったのも確かだ。しかし、あのキスシーンはそのようなファンにとっても納得のいくものではなかったのではないかと想像する。

オリジナル三部作ファンへのサービスが忍び込んでいた?

 その他の点でも、『夜明け』にはオリジナル三部作のファンを喜ばせるためだけに作られたのではないか、と思わせる節がある。オリジナルからの人物を一通り再登場させたことだけでなく、オリジナル三部作の中核となった男二人・女一人の三角関係を彷彿とさせる、レイ、フィン、ポーの三人の関係を最後の場面でもう一度しつこく確認すること、またオリジナル三部作のテーマであった父・息子関係と、いわゆるプリクエル(エピソード1から3)のテーマであった母・息子関係を、カイロ・レンに仮託して早回しで反復してみせたことなど、色々と指摘できる。

 それにしても、中心にあるのはやはりフォースの血縁主義であるし、パルパティーンという絶対悪役の(安易な)復活である。この作品は『スカイウォーカーの夜明け』ではなく、『スカイウォーカーの亡霊』とでも名づけるべきだったのではないか? 

 一言で言えば、「今までのは何だったの?」という感覚が、観賞後にむくむくとわき起こって来たのだ。(断っておくが、私は「往年のファン」なので、観賞中には基本的に何でもないところでもいちいち目頭を熱くしながら観ていたのである。)