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「え、そのキスシーン必要?」「血縁主義」に回帰してしまった『スター・ウォーズ』最新作への違和感

女性主人公は旧作の価値観との闘いに敗北した

2020/01/05
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「怒っている」レイア姫、「肩の力が抜けている」レイ

 最初のエピソード4(『新たなる希望』)は、騎士が城に幽閉された姫を救い出すという物語パターンを取っている。それ自体は、女性を守られるべきものとし、騎士が救い出して獲得する戦利品(=トロフィー)と考える、女性差別的な物語だ。

『新たなる希望』の、故キャリー・フィッシャー演ずるレイア姫は劇中で、この女性差別的な物語に精一杯の抵抗を見せてはいた。なにしろ、幽閉されていた彼女を救いに来た男たちに、脱出の計画もなかったのかとダメ出しし、みずから脱出口を切り開くのである。

レイア姫を演じるキャリーフィッシャー(左)とC3POを演じるアンソニー・ダニエルズ(右)©Getty Images

 だが、最終的にレイアは主人公ルークの双子であり、彼女もジェダイの力を持っていると明らかになるにもかかわらず、彼女がライトセイバーを手にして戦うことはない(と、いう歴史も『夜明け』で「修正」されるのだが)。むしろ、レイアの物語は、ルークと双子であることが明らかとなってハン・ソロとの三角関係が解消し、ハン・ソロと異性愛的に結ばれることで決着する。 

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 ごく単純化するが、レイア姫=キャリー・フィッシャーと、レイ=デイジー・リドリーはフェミニズムの二つの世代を代表しているような気がしてならない。前者は、1960年代から80年代の第二波フェミニズム。この世代のフェミニズムは、いまだに残る性差別と戦い、女性の社会進出を獲得していった。レイア姫は、彼女を「女性化」しようとする、つまりお姫さま扱いしようとする力と常に戦っているように見える。 

 それとの対照において、レイ=リドリーは、最初に述べたポストフェミニストだ。彼女は男たちに勝る力を最初から与えられている(『フォースの覚醒』前半での、フィンとの出会いの場面を見よ)。彼女は、彼女を「女性化」しようとする力から、そもそも自由であった。

 レイア姫=フィッシャーが苦闘したフェミニズム的問題からは彼女は自由に見え、「力が抜けている」ように見える。そしてなによりも、レイアのような怒りにとらわれていない。(この怒りという情動とそのコントロールというのも、(ポスト)フェミニズムの重要なテーマであるし、『アナ雪』や『ナウシカ』においても決定的に重要なテーマだ。一般に、ポストフェミニズムは怒りを否定し、よりポジティブな情動(自信など)を肯定する。) 

 その観点からも、拙著『戦う姫、働く少女』でも引用した、キャリー・フィッシャーとデイジー・リドリーとの対談(https://www.interviewmagazine.com/film/daisy-ridley#_)は様々な示唆にあふれている。 

フィッシャー:聞いて! わたしはセックス・シンボルなんかじゃないし、セックス・シンボルだというのは他人の意見なわけよ。それには同意できない。 

リドリー:その言葉は…… 

フィッシャー:まちがってるわよね? そう、あなたは衣装については闘いなさい。わたしのような奴隷になってはいけない。 

リドリー:わかった。闘うわ。 

フィッシャー:あの奴隷の衣装と闘いつづけなさい。 

リドリー:わかったわ。

 フィッシャーがここで言っている「衣装」というのは、エピソード6『ジェダイの帰還』の冒頭で、捕らわれた彼女が非常に露出度の高い衣装を着ることを強いられたことについてである。彼女を「女性化(セックス・シンボル化)」したものに対して闘うよう、フィッシャーはリドリーに言う。しかし『フォースの覚醒』の当時において、リドリーにはそのように「闘う」必要はなかったかもしれない。 

最新作で、レイは旧作の価値観との闘いに敗北した 

 そう、その必要はその当時はなかった。あくまで過去形で、なかった。レイ=リドリーはフィッシャーが言った闘いにどうやら敗れてしまったのだ。