なぜ『アナ雪2』も『夜明け』もルーツ探しの物語だったのか?
これが『スター・ウォーズ』という作品の限界だったのか、J・J・エイブラムスという監督の限界だったのか、それとももう少し広く、私がここでポストフェミニズムと呼んでいる、女性とその表象をめぐる状況の変化の結果なのかは、はっきりとは言えない。
ひとつ言えることは、ポストフェミニズムをみごとに表現するもうひとつの作品だと私が思っている『アナと雪の女王』の続編が、『夜明け』と時を同じくして公開され、その両方が、ポストフェミニズム的な女性主人公が「自分の謎のルーツ」を探究するという同じモチーフを共有し、それぞれにポストフェミニズムの真の問題を回避するような形でそれを解決していることは、偶然ではないかもしれない、ということだ。
『アナ雪2』については別に論じたのでご参照いただきたいが、いずれにせよ、この二つの作品のポストフェミニズム的女主人公のルーツ探しはうまくいかなかったと言わざるをえない。
パルパティーンを倒してスカイウォーカーの名を取るレイは、血縁主義を否定していると論じることも可能ではある。だが、そこでは、ある血縁を否定することでやはり「スカイウォーカー」という血縁を肯定しているわけで、巧妙なごまかしがあると言うべきだ。
というか、そもそも、ポストフェミニズム的な「戦う姫」たちに、ルーツは必要だったのか? ルーツを問わねばならなくなったこと自体、なんらかの時代の変化を示しているのではないか?
これらの疑問への明確な答えは、申し訳ないが、ない。ただここで指摘しておきたいのは、こういった物語の変化の裏側で、「男たちの物語」もまた非常にいびつなものになっていることだ。
「異性愛的な期待に応えなければ」から生まれるいびつな物語
そもそも、ポストフェミニズム的な物語においては、男性は力なき脇役、もしくはせいぜいやさしい助力者に回るしかない。私が『フォースの覚醒』や『アナ雪2』と比較した『風の谷のナウシカ』であれば、アスベルである。彼はナウシカを慕いつつ、彼女が自分とは違う世界、違う水準の存在であることを悟り、彼女をサポートしながらも自らの脇役性に納得していく(特に漫画版では明らか)。
『アナ雪』であればその役柄はもちろんクリストフに負わされている。クリストフとアナとの異性愛物語は、はっきり言って「付け足し」のようなものでしかない。『アナ雪』の物語のロジックの中に、異性愛はじつは場所を持っていない。ところがおそらく、作品は世の中の異性愛的な期待に応えなければならない。
そこで出てくるのがたとえば、『アナ雪2』でのクリストフの突然の絶唱の場面である。単にモタモタしていて置いて行かれたクリストフは、突然に80年代か90年代風の歌を、その年代のミュージック・クリップ風に歌い始める。これは私だけなのかもしれないが、あの場面は笑えばいいのか悲しめばいいのか怒ればいいのか分からず、変な顔にならざるを得なかった。
あのような場面が出てきてしまうこと自体が、ポストフェミニズム的物語の一種のほころびかもしれない。