全31人のうち、南アフリカ、トンガ、オーストラリアなど外国籍の選手を含む、16名までが海外出身者で占めたラグビー日本代表が、昨秋のW杯で史上初のベスト8入りという偉業を成し遂げた。選手それぞれの出自の多様性をむしろ強みとして、勝利を目指し「ONE TEAM」に団結したチームが、多くの日本人の心を揺り動かしたことは記憶に新しい。
そんなラグビーW杯の開催期間中だった2019年10月10日、日本サッカー協会(JFA)の理事会で、サッカー留学で来日した18歳未満の選手は原則的に公式戦に出場できなくなることが決まった(ただし2019年度現在で在学中の留学生は、卒業までプレーを続けられる)。
高校生年代を例にとると、今年度は静岡学園の優勝で幕を閉じたばかりの全国高校サッカー選手権や、夏のインターハイ、それらの地方予選といった公式戦で留学生選手がプレーする姿は、今や珍しいものではなくなった。その象徴的な存在としてサッカーファンに強烈な印象を残しているのが、卒業後はJリーグで活躍し、やがて日本に帰化すると代表選手としてW杯出場を果たした、三都主アレサンドロ(明徳義塾高卒)や田中マルクス闘莉王(渋谷幕張高卒)だろう。
彼らのような宝石を生んだ “留学生選手”という系譜が、2021年度をもって途絶えてしまうのだ。
ラグビーと比べると時代の流れに逆行?
ラグビーW杯での日本代表の多様性――中でもリーチマイケル主将やヴァルアサエリ愛らの日本との縁は、ニュージーランドやトンガなどからの留学生として、日本の高校へ入学したことから始まっている。そして高校ラグビー公式戦への留学生選手の出場は、現在も認められている――が際立っていただけに、昨年10月のJFA理事会決定は不可解だし、時代の流れに逆行したものに見える。
この決定を知った時、私の頭にすぐ浮かんだのは、千葉・渋谷幕張高校(渋幕)教諭の宗像マルコス望氏だった。
1959年、ブラジルで日系二世として生まれ、サンパウロFCの下部組織などを経て80年から82年まで東洋工業サッカー部(現サンフレッチェ広島)でプレーした後、東海大学、サンパウロ大学で学んで体育教師の資格を取得。85年に再来日して、その2年前に創立したばかりの渋幕の体育教師に採用され、以降、同高サッカー部の監督も務めてきた。