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「歴史の反省」は可能か 小林秀雄はなぜ反省しなかったか 宿命としての大東亜戦争論

戦後七十年を経てなお引き裂かれる戦争観。「歴史の悲しみ」と向かい合うためには

2015/03/19
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利益線の「切りのなさ」

 しかし、皮肉なのは、素面で歴史に向き合ったとき見えてくるのが、これまた素面と仮面の二重性のなかで動揺する近代日本の姿であるという事実である。

 まず、その二重性は明治維新からして明らかだろう。一九世紀末に始まる西欧列強の帝国主義的膨張政策に対抗するために、あるいは適応するために被られた西欧近代化の仮面の裏には、常に日本国家の自主独立という素面が隠されていたのだった。それを言い換えれば「和魂洋才」ということにもなろうが、それは、最初「攘夷派」だった薩摩と長州こそが、西欧の圧倒的実力に直面して後に涙を飲んで「開国派」に転じ、明治維新を成し遂げた歴史のうちにも暗示されている。そして、その後の日清、日露、そして大東亜戦争に至るまでの日本の歴史は、まさしく、日本国家の自主独立(攘夷)という素面の上に、西洋近代化(開国)という仮面を被せた形で歩まれていくのである。

 たとえば、一八九〇年(明治二三年)に提出された首相山縣有朋による「外交政略論」、あるいはその延長線上で為された施政方針演説(同年)が語る「主権線・利益線論」は、その後の日本が対外的に強いられた仮面がいかなるものだったのかを考える上で示唆的である。征韓論を近代化した山縣の「主権線・利益線論」(ドイツの法学者シュタイン博士に学んだと言われる)は、列強各国から一国の独立を維持するためには、自国の主権線は言うまでもなく、その周辺の「利益線」をも確保する必要を言いながら、「我邦利益線の焦点は実に朝鮮にあり」と説いていた。そして実際、朝鮮半島という「利益線」をめぐって戦われた日清、日露の二つの戦いに勝利した日本は、西欧近代化を実現することによって、東アジアの中で唯一自国の独立を守り抜くことに成功したのだった。以降、日清、日露戦争とは、帝国主義状況への必死の適応(仮面)によって、自国の自主独立(素面)をよく守りきった好例として語り継がれていくことになる。

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 しかし、果たしてそうか。この「利益線論」という仮面が危ういのは、実は、その仮面それ自体が素面を食い破っていく性格を孕んでいたという点にある。つまり、「利益線」が確保された瞬間、その「利益線」をより磐石なものとするために、更なる「利益線」が求められ、ついに日本は何が「主権線」で何が「利益線」なのかが皆目分からないといった危機的な事態を迎えてしまうのである。

 しかも、注意すべきなのは、そんな「利益線」の切りのなさが、既に日清、日露の勝利においてさえ予感されていたという事実だろう。日清戦争の結果、日本に対して二億両(約三億一千万円)の賠償義務を負った清国は、列強からの借款供与の見返りに、自国の権益をイギリス、ドイツ、ロシアなどに譲り渡してしまうのだが、それが、後に列強の中国大陸における膨張政策を加速させ、ついにはロシアの南満州や朝鮮への南下政策を許してしまうのである。日露戦争が、その延長線上で戦われたことは言うまでもない。

 だが、「利益線」の確保は日露戦争の勝利でも終わらなかった。のみならず、そこでの戦利品自体が新たな問題を生み出していった。日露戦争後、遼東半島の租借権と長春・旅順間の鉄道とその付属権などを得た日本は、今度は、それらの権益をどのようにして守るのかという課題に直面することになるのだ。遼東半島の租借権は一九二三年に、鉄道の権利は一九四〇年にその期限が切れることになっていたが、多額の借金と死傷者約二十万人の犠牲を払って得た「利益線」をそのまま手放すということが、帝国主義状況を生きる当時の日本にとって、あり得ない選択肢だっただろうことは想像に難くない。

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