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近代日本の無理が凝縮

 そして、そんな時、「天佑」のように第一次世界大戦が勃発する。日英同盟によって参戦を要求された日本は、即座に派兵を決定、ドイツが根拠地としていた中国山東省の青島を攻略し、これを占領する。また、それに乗じて中国に「対華二十一箇条」の要求をつきつけ、ドイツ権益を引き継ぐと共に、返還期限が目前に迫っていた南満州関係の権益の半永久的貸与(九十九年間)を中国に認めさせる。が、ここでも、例の切りのなさが顔を出す。「対華二十一箇条」が、一方で中国での排日運動の激化をもたらし(このとき中国側は日本をハッキリと帝国主義国と認知した)、他方で中国の「領土保全と門戸開放」を要求するアメリカとの間に利害対立を引き起こしてしまうのである。

 しかも、ここに最も切りのない課題が加わってくる。すなわち、日本は第一次世界大戦に勝利した五大国として国際的な「軍縮」条約に付き合わされるのと同時に、第一次世界大戦によって出現した「総力戦」という新しい戦争形態に備える必要にも迫られることになるのだ。事実、その後の昭和戦前期の歴史は、「総力戦」への備えもままならぬうちに「軍縮」を押し付けられた軍部の焦燥感が、一方で「昭和維新」を唱える一部青年将校の政治化を加速させ、他方で「総力戦」に備えるための資源地確保(利益線、生命線論)を促しながら、日本を、まさに大陸への終わりなき軍事展開(満州事変、日中戦争)へと駆り立てていくことになるだろう。その結果、日米間の中国利権をめぐる利害対立は決定的となり、アメリカからハル・ノート(「利益線」の放棄要求=最後通牒)を突きつけられた日本は、ついに日米開戦へと踏み切ることになるのだった。

 しかし、もうここまで来ると私たちは、当時の日本が何を守るべき素面とし、何を敢えて被っている仮面としているのかが見えなくなってくる。そして、そんな自己喪失の果てに唱えられたのが、あの「大東亜戦争」の理念だったのであれば、やはりそこには近代日本の無理が凝縮されていたと言うべきではないのか。実際、「東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せんことを期す」とした「大東亜戦争」開戦の詔勅自体が、その不可能性をよく示している。帝国主義からの解放(東亜永遠の平和)のための帝国主義戦争(帝国の光栄)という自己撞着的表現において、それは、日本近代史の切りのなさを、あるいはその空想性(ユートピア性)を告白しているように見えるのである。

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 かつて竹内好は、「大東亜戦争」開戦当時に議論された「近代の超克」について、それを「日本近代史のアポリア(難関)の凝縮」だと評した。が、同じことは日本近代の戦争史全体にも言える。すなわち、日本の戦争そのものが、近代化(帝国主義化)しなければ自主独立を果たし得ず、しかし近代化(帝国主義化)すればするほどに己の素面(アイデンティティ)を見失わざるを得ないといったアポリアの中にあったということだ。その意味で言えば、林房雄が近代日本の戦争を、一つの「東亜百年戦争」(『大東亜戦争肯定論』)として捉えようとしたのも故なしとはしない。

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