スーツを着るという時点でイヤ
川谷 大学3年のときに就活しようと思ったんですが、まったくやる気が起きなくて。スーツを着るという時点でイヤだったんです。人と同じことをするのもイヤだったし。とにかく、モラトリアム期間を長くしようと思って、大学院へ行くことにして。たまたま推薦が取れたんで、そのまま。
岡村 やっぱ、めちゃめちゃ頭がいいなあ。どんな研究を?
川谷 セラミックの研究を4年生の頃からしてたんです。酸化ジルコニウムを燃料電池に使うという。普通は温度が高くないと作動しないんですが、僕は温度を下げる研究をずっとやってたんです。
岡村 当時、音楽活動も並行してやってたんですよね?
川谷 そうです。大学で軽音部に入って、3年生の頃からミクシィで募った人とバンドをやるようになって。で、4年生でインディゴ ラ エンドを結成して。研究室に行きながらやってました。それもあったからモラトリアム期が欲しかったというのもあるんです。
小1の頃から6年間、毎週やっていたこと
岡村 音楽との出会いというのはどういうものでしたか?
川谷 長崎の五島列島に祖父がいて、「源ちゃん一座」っていう劇団をやってるんです。五島では結構有名で、歌や踊りや芝居や漫談のある劇団で。僕が3歳か4歳のとき、みんなの前でよく歌わされたんです。「川の流れのように」とか「一円玉の旅ガラス」とか。すると、結構歌が上手かったらしく、「音楽家になりなよ」と言われたのが最初ですね。
岡村 へえ~。じゃあ、意識的に音楽を聴くようになったのは?
川谷 小学生の頃からですね。
岡村 どんな音楽が好きでした?
川谷 7つ上の兄と6つ上の姉がいるんですが、基本は兄ちゃん姉ちゃんが家で聴いてたやつです。T.M.Revolutionとか、久保田利伸さんとか。あとは、父が井上陽水さんが好きだったんで、「心もよう」がいつも流れてて。
岡村 音楽があふれてる家だったんだ。お祖父さんの劇団も含め。
川谷 そうですね。とにかく、小1の頃からずっと、J-POPの1位から10位までの曲を、TSUTAYAで毎週借りてたんです。だからJ-POPにはめちゃくちゃ詳しかった。毎週欠かさず、それを6年間ずっと続けてたんで。
岡村 絵音君が作るものって、ポップでメロディアスで、人の心をギュッとつかむ音楽だなと思うんですが、子供の頃にヒットチャートを追いかけていたことが元にあるわけだ。当時はどんなベストテン・ソングを聴いてたんですか?