自分の性と子どもだけが武器だった
「ねえ周平、さっきの話、できんの?」
「やらないってのは、あり得ないからね」
「周平、あんたがやらないと、冬華が死ぬよ」
母の声は、息子を祖父母殺害へと周到に追い詰める。状況を自分の意に沿うようコントロールするために、衝動的に性を利用してきた秋子に、おそらく自覚はあまりない。秋子に武器があるとすれば、自分の性と子どもだったのだ。
子どもを盾に金を無心する。妹が死ぬよと脅して、息子に祖父母を殺害させる。自分には何もない、その空虚さ、貧しさを本人こそが最もよく知っているからこそ、子どもの存在はライフラインであり保険であり命綱なのだ。自分の性が使えないのなら、子どもの存在で他人を脅して、金や環境をかろうじて手にする。
「あたしが産んだ。どう育てようと勝手だろ」という言葉は、子どもを、自分の寂しさや欠落を埋める体温のある人形にする秋子が自分に言い聞かせる言い訳だ。
産む性は、かくも空恐ろしい狂気を根源的に持ち合わせている。そうでなければ、自分の中から別の人間をひねり出すなんていう、冷静に考えれば常軌を逸した行為に及べるわけがない。母親とは、どこか正気ではなれない。狂気、それはきっと母親という存在の定義に内包されるものだ。
「共依存」などという言葉では括れない
そもそも現実の事件に着想を得たフィクション。これは秋子という母親を断罪する、ジャッジする映画ではない。監督デビュー作『ゲルマニウムの夜』(05)、『ぼっちゃん』『さよなら渓谷』(13)や『光』(17)、『日日是好日』(18)などで、社会から乖離・遊離した存在や、世間で倫理的に理解されにくいものへ視線を投げかけてきた大森立嗣監督は、今回の『MOTHER』に対しても「はっきりした答えは出ない。映画に答えを求めるのではなく、映画と向き合って、観る人それぞれが自分なりの何かを感じ取るしかない」と冷静に公式パンフレットで語る。
物語の終盤、弁護士の口から一度だけ発声される「共依存」との言葉を聞いたとき、そんな言葉で簡単にこの親子の関係を括ってくれるなよと、その弁護士に対する不快感が胸の奥底でじわりと湧き上がるのを感じた。
そんなレッテルが貼られた途端、この物語は「ケース」となって片付けられてしまう。あまりに多くを観てきてしまった観客は、もうこの母子の関係性を「共依存」なんて自分と縁のなさそうなドアの向こうに片付けて、わかったような顔はできないのだ。自分からつき離し遠ざけて片付けてしまうのではなく、母親の側で、あるいは子の側で、自分と同じ体温を通わせて観る。そういえば自分はどこからどうやってここへ来たのか、忘れていた記憶や思いにふと出会うかもしれない。