ZOZOマリンの「天保山」決戦
ファイターズが富山アルペンで楽天・藤平尚真にヒネられた(6回までノーヒットノーラン!)その同じ夜、ロッテも所沢で競り負けていた。今季、何度目のことだろう。ハムが負けるとロッテも負ける現象だ。本当にロッテは「職員室に一緒に怒られに行ってくれる友達」だ。友よ、9月が来た。寂しいことだな。5割もCSもあり得ないくらい遠い。こんな風に野球の季節が終わってしまうのか。永遠に9月が続けばいい。井口資仁は永遠に引退しなければいい。
9月最初のカードはZOZOマリンのロッテ3連戦だった。僕は「裏天王山」に代わる新しい用語を思いついた。「天保山」決戦である。どっちみち関西のほうの山だ。天王山は京都府乙訓郡大山崎町、秀吉と光秀の山崎の戦いの舞台だ。「天下分け目の天王山」だ。一方、天保山は大阪市港区に人工的に築かれた山だ。標高4.53m。「日本一低い山」として評判になったが、どうも宮城県の日和山(標高3m)に負けているらしい。でも、何か雰囲気出るじゃないか「天保山」決戦!
「いよいよ、来週は天保山決戦だね。僕は外のケバブ屋が楽しみだよ」
「オレもマリン行くとケバブ食べてる」
「やっぱり野球は天保山決戦がいちばん落ち着くなぁ」
「でもさ、ホンモノの天保山にはずいぶん行ってないよ。海遊館行きてぇ」
「おいおい、幕張と天保山は海でつながっているぞ」
「あ、そうか、海ってでっかいんだな〜」
野球仲間の会話として最高に無邪気である。今月は13、14日に札幌ドーム、23、24日にZOZOマリンで「天保山」決戦が組まれている。そのうち24日は井口引退試合だ。もう考えただけで泣きそうだ。ふと気づくと自分はロッテが相当好きなのである。
実家が川崎市多摩区なのでたまに南武線で川崎球場へ行った。申し訳ないが川崎市は横にひょろ長くて、一体感がない。川崎駅のほうはあまり縁がないのだ。だから川崎球場はあくまでアウェーで、原付でびゅっと行ける「日本ハム多摩川グランド」(表記上「グラウンド」ではないのだ)のほうが身近だった。ていうか小田急線沿線だから何をするのもまず新宿に出て、それから考える習慣だった。
まぁ「たまに」というけど、川崎球場の風景は十分、血肉化している。僕は村田兆治も水谷則博もリー兄弟も落合博満も愛甲猛も名前を見ると「やっぱり落ち着くなぁ」と思うくらいパ・リーグのなかで呼吸をしてきた。川崎球場でいちばんの思い出は1981年プレーオフだ。山内一弘監督率いる前期優勝ロッテに大沢啓二親分率いる後期優勝日ハムが挑んだ。その第2戦、スコア5対5で、9回時間切れ引き分けとなった試合(何と5時間17分も費やした。9イニングの最長試合)を生で見ている。あのときもこのまま試合が永遠に続けばいいと思った。川崎球場に根を生やしたかった。この年、日ハムはパの覇者として巨人と「後楽園シリーズ」を戦うことになるのだが、なぜか日本シリーズよりプレーオフの「日ロ戦争」のほうが思い出深い。
ロッテとの不思議な縁
それからこれは初めて文章にするが、駆け出しのライターの頃、ロッテオリオンズの仕事を頼まれそうになったことがある。確か何かの雑誌にパ・リーグのことを書いたのだ。それが球団職員の方の目にとまったんだったか、あるいは誰かが紹介してくれたんだったか、新大久保の球団事務所にうかがうことになった。落合博満が首位打者だけを(!)獲った年だから83年だと思う。僕は24歳だ。どんな仕事も断る余裕がなかった。いただいた話は「川崎球場の観客増員策を若い人のアイデアも入れて考えたい」だった。球団事務所は新大久保のロッテ新宿工場の敷地内にあり、いつもそこはかとなく甘い匂いがしていた。人生で初めて顔を出した「ホンモノの球団事務所」だ。
何度かお邪魔してミーティングに参加したり、アイデアを出したりした。僕の考えた球団スローガンは「サバイバル・オリオンズ!」というコピーだった。閑古鳥が鳴く川崎球場とからかわれることが多いけど、パ・リーグの現場はドラマに満ちている。80年代のプロ野球は生存競争だ。テレビにはかからないリアルを見よう。
もし、採用されてたら案外、梶原紀章さんの先輩になって、今頃は文春野球コラムのロッテ担当になっていたかもしれない。不採用だった。ロッテ球団との縁はそれきりぷっつり切れて、僕は集英社や小学館の仕事で毎晩のように神保町へ通って、時間が空くと後楽園球場&東京ドームへ駆け込む20代を送る。