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 サインを求めて押し寄せるファンから身を挺して浅尾をガードしていたマネージャーが、サインペンで腕を刺されることも日常茶飯事だった。

 会場外のトイレの前でファンに待ち構えられることもあり、それを受けて会場内に選手専用の仮設トイレが初めて備えられた。

 浅尾は文字通り、「広告塔」になった。

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©️文藝春秋

アイドル並みの人気とそそがれる熱視線

 それまで埋もれていたビーチバレーという競技はこれまででは考えられないほどにメディアに露出する機会も増え、れっきとしたオリンピック競技として知られるようになった。

 しかし、人気の渦中にいた本人は、現役時代を振り返って「なかなか満足のいく結果が残せなかった」という。2009年8月のビーチバレージャパンでは優勝したものの、国内ツアーでは一度も頂点に立つことはできなかった。西堀健実(現トヨタ自動車)と組み、北京オリンピック出場を目指していた頃には、表彰台の一番上に立てない浅尾に“万年3位”という心無いレッテルも貼られた。

 アイドル並みの人気とそそがれる熱視線は、プレッシャーとなって浅尾の肩にのしかかった。

©文藝春秋

人気が先行してしまった苦しさ

「知名度が上がってきても、その頃の私はまだビーチバレーを始めて3年目。全然実力が追いついていませんでした。アスリートは結果がすべて。それは自分でもわかっていたので、試合に負けたのにインタビューを受けなければいけないことが苦痛で…。 

 自分の言葉がどんなふうに書かれるんだろう、と思い詰めたこともありました。試合に勝った先輩を優先してほしいと、心底思っていました。それに一緒に取材を受けてもらうパートナーにもいつも申し訳なかった。当時は自信もなかったし、注目されることをプラス思考に考えられなくて…若かったなと思います」

 誰もが知っているような有名アスリートは、大きな大会で結果を残したことで注目を集め、それに比例して競技環境が整っていくのが通例だ。

 しかし浅尾のスタート地点は、それとは逆。最初にあまりに人気が先行してしまったため、結果的にそれを追い越すことができなかった。