若手選手が海外を転戦することはもちろん、マイナー競技において海外応援ツアー企画が組まれること自体、異例である。
「ビーチの妖精」としてブレイクした浅尾だからこそ実現できたことであり、当時の浅尾人気の高さを物語るエピソードでもある。
ただ、人気というのは重圧と紙一重ともいえる。
その裏には想像を絶する妖精の苦悩があった。
練習コートやトイレに移動するのにも大変
「高校生の時、当時の事務所から初めて『ビーチバレーをやってみませんか?』と言われて。同時に、『ビーチバレーの広告塔になってほしい』とも言われました。まだ18歳でしたし、“自分が広告塔”ということに対して、どうしてもイメージが湧かなくて…。当時、『何年後かにはテレビでCMに出ているよ』と言われても、信じられなかったと思います(笑)。
でも、『ジャンクSPORTS』のビーチバレー対決に出演させてもらって、ダウンタウンの浜田(雅功)さんと対決させてもらったりして。そうしたら、テレビの影響は本当に大きくて、あれよあれよという間に会場が満席になりました。試合でも観客のみなさんからの拍手が大きかったのはすごくうれしかった。まさか、自分がそんなふうになれるなんて思っていませんでしたから」
その人気は凄まじかった。ピークとなった2007年の国内ツアー各地には前年の4倍もの観客が駆け付けたこともあった。これにより、会場にはそれまでなかったスタンド席が設置され、メディアの数もそれまででは考えられないほど増え、一大会で100~150ほどの媒体が取材に訪れるほどだった。
そして、「練習コートやトイレに移動するのも大変でした」と本人が振り返るように、浅尾も動けばファンも動いた。