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「さらっぴんの服に着替えて、飛田へ繰り出さはった」

「昔はどれだけ賑やかやったか。人、人、人で、向かいの店に行くにも『すんまへん』『すんまへん』って言わんと横断でけんくらい人が“だんご”やった。夕方、上着、シャツ、ズボン、下着、靴下……上から下までまるごとうちで買(こ)うて、『ちょっと着替えさしてや~』言うお客さんがいっぱいで。仕事帰りに、みんなさらっぴんの服に着替えて、飛田へ繰り出さはったんやね。お客さんの脱いだ服を1人分ずつ紙袋に入れて、名前を書いて、朝まで預かってあげましたん。よおさん(たくさん)売れましたで~」

 この人の言う「昔」とは、大阪万博の景気に沸く1960年代後半や、売春防止法が完全施行される1958年以前のことだ。もっと言うと、この人の言う「お客さんの服」とは鳶、左官など建設業の作業服のことである。ホワイトカラーもブルーカラーも、飛田のお客だった。後者は、1日働いた汗臭い作業服のままでは飛田で嫌われるから、ネクタイとまではいかなくても新品の服に着替えて乗り込んだのである。

 さらに古い時代も、いかにこの商店街が賑わったか。商店街中ほどにある、1923年(大正12)創業の洋食店「南自由軒」の3代目店主はこう語る。

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明るい通り沿いに料亭がひしめきあっている 撮影/黒住周作

「飛田へ行く人は、大盤振る舞いをいとわない」

「昔は洋食というのはハイカラで上等の食べ物やった。新世界からこのあたりにかけて、うちみたいな洋食店が何軒もあって味を競っていたと、祖父や親父からよく聞きました。飛田へ行く前に食べに来て、帰りにも食べに来る。飛田へ行く人は、大盤振る舞いをいとわない。商店街にもたいがいお金を落としてくれたようですよ」

 そう。今やうらぶれたこの商店街が元は飛田へ続くメインストリート「飛田本通り」だった。

 飛田への道は何本もあった。この商店街の30メートルほど東に並行して通る「北門通り」も、南大阪のターミナル天王寺駅付近から妖しげな飲み屋や小料理屋が並び、緩やかな坂を下った辺りを“地獄谷”と呼んだ「旭町商店街」もあったし、南側からは南海平野線(路面電車)の飛田駅から北上する道も。それが、今や北門通りはしもた屋が点在する住宅密集通りと化し、旭町商店街は阿倍野再開発で消滅し、南海平野線はとうの昔に廃止されたから、この商店街が今やほぼ唯一となった飛田への大道なのである。300メートルほど西には、日雇い労働者の町・釜ヶ崎が控え、200メートルほど北には、ミヤコ蝶々や人生幸朗ら300~400人の芸人が住まいし「てんのじ村」と呼ばれた戦前の長屋群もある。