スタジオのドラマーと言ったらポンタだった
――「自暴自伝」にも、ポンタさんが歌謡曲畑で荒稼ぎしていた時期の逸話が出てきます。1日に多くて6~7カ所、掛け持ちで都内のスタジオをタクシーで回っていたとか。
山下「僕が大貫妙子や吉田美奈子とコーラス・チームを組んでスタジオ仕事をやってた時には、誰が演奏しているのか、ある程度はわかったんですよ。演奏の大枠が出来上がったところに、コーラスをかぶせに行くわけだから。でもドラマーやベーシストは何もないところから始まるわけです。3時間で2曲録るのがワンセットで、売れっ子はそのサイクルを朝の9時から夜11時まで繰り返していく。
僕らの場合、一方で自作自演、シンガー・ソングライターもやっていたから、そこまで完全分業じゃない側面があった。編曲にしても編曲家の先生に頼むんじゃない、スタジオでミュージシャン同士がもう少し密に関わり合う、アンサンブルの新手の方法論が生まれてきていたんです。70年代に入ってから、スタジオ・ミュージシャンに一定のステイタスが備わってきつつあった。そんな中でも、72年から73年にかけて、スタジオ・ミュージシャンのドラマーと言ったら、とにかくポンタだった」
シュガー・ベイブ時代に感じた「排他的な雰囲気」の中でも…
――ポンタさんと間近に接した時の印象はいかがでしたか。
山下「本当に優しいやつなんです。それは最初に会った時から変わらない。なぜそう思ったかというと、当時のスタジオ・ミュージシャン、特に東京のスタジオ・ミュージシャンというのは、アッパー・ミドルの人たちがほとんどだったのね。私立の付属高校出身の人も多かったし」
――青学とか。
山下「そうそう。あと慶応とか明治学院。そういう人たちじゃないと、いい楽器は買えなかった。僕の高校時代、サラリーマンの初任給が4万5千円の時代に、ギブソンのレスポールが32万。一番安いテレキャスターだって17万したからね。ドラムに至っては、ラディックが50万60万するのは当たり前。それが買えるのは、よっぽどいいとこのお坊ちゃんか、稼ぎのいいプロのバンドマンだけだった。こちとらバイトしたってギターならモーリスやアリア、ドラムはパールの安いやつが精一杯ですから(笑)。
そういう意味で東京のスタジオ・ミュージシャンってどこかエキセントリック。排他的な雰囲気があったんです。『シュガー・ベイブ』(※73年に山下氏を中心に結成されたインディーズ・バンド)をやってた時代、そういうことを特に感じてた。同じ東京でも僕らは城北地区出身。池袋とか巣鴨、赤羽がホームグラウンドの人間なので」