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「シュガー・ベイブの後、なぜポンタにドラムを頼んだか」山下達郎が初めて語った戦友・村上“ポンタ”秀一

「シュガー・ベイブの後、なぜポンタにドラムを頼んだか」山下達郎が初めて語った戦友・村上“ポンタ”秀一

山下達郎ロングインタビュー#1

2021/04/11
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コーラス・ボーイだった僕にも“別け隔て”がなかった

――「ティン・パン・アレー」の音楽自体、東京のお坊ちゃま文化から生まれた面はありますよね。(※細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆の4人からなるセッショングループ。「キャラメル・ママ」が発展的に拡大したプロジェクト)

細野晴臣氏 ©️文藝春秋

山下「そのものですよ。キャラメル・ママ、ティン・パン・アレー、サディスティックス。ベビーブーマーの中からあの一群が、突然変異みたいな超絶テクニックを携えて出てきた。後にも先にもあんな現象ってないですよ。不良性がない代わりに、お坊っちゃん然とした独特の排他性を備えていて……。松本隆さんなんかもそうだよね」

――アメリカの大学で言うところの“フラタニティ”的な。

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山下「そうそう。そこには上手い下手の差というのも歴然とあって。日本青年館だったかな、シュガー・ベイブでティン・パンの前座をやった時、演奏が終わって(ライヴ音源の)カセットをもらいに行ったら、PAのスタッフから『お前ら下手だから録ってねえよ』と言われたことがあった。そんなのが日常茶飯事だったんです。向こうは忘れてるかもしれないけど、こっちはよく覚えている(笑)。

 ポンタにはそういうところが一切なかったんです。テクニシャンだけど受容度が高い。死ぬまで後輩の面倒を見ていたし、本当に優しいやつだった。初めて会った頃なんて、言うなれば僕は一介のコーラス・ボーイですよ。でもポンタの場合、そういうところでの別け隔てがなかった。後で話しますけど、『ライヴで叩いてほしい』と頼みに行った時も、歌に関わっている人間としてきちんと認めてくれて。この業界、こちらが何者かわかった途端に、掌を返すように態度を変えてくる人間が少なくないんですよ。ポンタにはそういう裏表が一切なかった」

嫌いの基準は「スタイル」より「スタンス」

――ポンタさん、対外的にはぶっきらぼうなイメージもあったと思うんですが、そういうところは感じませんでしたか。

山下「ないです。むしろ非常に寛容な人だった。ミュージシャンにも色んなタイプがいて、何でもかんでもけなす、悪いところばかり探すやつがいる。でもポンタとか山岸潤史は、本当に嫌いなもの以外はけなさないんです。何が『嫌い』の基準かというと、スタイルよりむしろスタンス。『お前、そんな態度でやってんじゃねえよ』ってところはあるけど、上下関係とか音楽のスタイルとかは、一切問題にしてないんだよね。うまく言えないけど」

――ジャンルではないんですね。

山下「ジャンルじゃないんです。そういうところに対する寛容さは素晴らしくあった。泉谷(しげる)さんと共演したのも、その人となりと、音楽に向かうパッション、そういうものを重要視していたんじゃないかな。

 とにもかくにも僕自身下手くそなバンドをやっていて、並行してコーラスのスタジオ・ミュージシャンをやるようになった。特に男性のコーラスって、このジャンルでは僕ひとりだけしかいなかった。その頃ですよ、吉田美奈子と大貫妙子と村松邦男と僕で、ルネ・シマールのツアーでコーラスをやったのは。その後、美奈子の『FLAPPER』に僕が提供した『永遠に』って曲をポンタが叩いたり、そこいらあたりから少しずつコミュニケートが始まった。そこから僕の『SPACY』ってアルバムへとつながっていったんです」

吉田美奈子「FLAPPER」

――「SPACY」は今や名作のほまれ高い1977年の作品ですね。