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【NHK過労死】両親が初めて語った「NHKへの不信感」と「亡き娘への思い」〈会見詳報〉

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娘はかけがえのない宝でした

 亡き、未和に対する母の思いを、稚拙ながら述べさせていただきます。私の幼い文章で申し訳ございません。娘はかけがえのない宝、生きる希望、夢、そして支えでした。

 娘亡き後、私の人生は180度変わり、もう二度と心から笑える日はなくなりました。

 未和という名前は、未来に平和をということで、「未」と「和」を繋げて、考え抜いてつけました。産まれた当初は、私の実家のある長崎県長崎市におりました。つわりがひどく、難産だっただけに、玉のような女の赤ちゃんと出会えたときは、本当に奇跡だと幸せを噛み締めていました。すくすくと順調に育った未和は、親馬鹿と思われるかもしれませんが、才気煥発で、他の子にない、光るものを持っているように感じていました。

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 未和が1歳半になった頃、コロンビアに単身赴任中だった夫が帰国、最初こそ怖がりましたが、すぐに慣れました。ちょうどその頃、TVの子ども番組「おかあさんといっしょ」が長崎で収録、出演させていただいたのが、NHKとの最初のご縁でした。

 未和5歳、次女3歳、長男1歳。東京都豊島区に転居、東京には親戚も知り合いもなく、夫は海外出張が多く、1人で3人を育てる日々は無我夢中でした。未和は幼稚園、小学校を豊島区で過ごしました。私の長崎の父が倒れた時は、当時3歳の長男だけを連れて、東京と長崎を何度も往復、その頃から未和はお姉ちゃんとして、下の子たちの面倒を見るようになったと思います。私も、次第に精神的に未和に頼るようになっていました。

 中学は文京区、高校は世田谷区駒沢から通い、一橋大学法学部へと進んだ未和は、私の勧めで、TBSラジオで大学生がやっていたBSアカデミアにかかわり、本格的に報道の世界に興味を持ち始めました。

一番の親孝行者だった

遺族提供

 3人の子の受験、就職など、節目節目には必ず私も伴走という形をとったのですが、一番、手ごたえがあり、充実し、満足のいく結果になったのは未和でした。まさに、我が家のエースでした。が、一番の親孝行者が一番の親不孝者になりました。

 NHK入局後の最初の赴任地は鹿児島。母娘ともに、有頂天になりながら、電化製品、必要な家具を買い揃え、任地に送りました。長崎の親たちの介護の帰りに、わくわくしながら4回ほど鹿児島に行きましたが、未和は仕事で時間が取れず、一緒の思い出は残念ながら皆無でした。亡くなった後分かったことですが、彼女は持ち前の頑張りで、賞を2回いただいたり、拉致問題でもずいぶん活躍したそうです。平成22年、念願の東京勤務が決まり、我が家も現在の家に引っ越しました。

 一度、美和が都庁近くのホテルで、昼食をご馳走してくれたことがありました。バタバタバタッと来て、サーッと職場に戻る姿は今でも目に焼きついています。そこで未和が珍しくぼやいてきたことは、都庁クラブでの人間関係が、鹿児島時代とはまったく違って希薄だということでした。それでももう少し頑張ってみるということで、口出しは控えました。