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人知れず感じていた「声の限界」

 いまから40年近く前に出版された『中島みゆき ミラクル・アイランド』という本では、有名無名を問わずさまざまな人たちが中島について語るなか、とある音楽評論家が《彼女はボーカリストとして、もともと声量にめぐまれているわけでも、テクニックにすぐれているわけでもない。/それをおぎなってきたのが、アルトの声質だったり、我流のうたい方だったりしたわけだ》と書いていた(※3)。だが、いまではそんなふうに言う人はいないだろう。

 この本が出たのは1983年だが、じつはそのころ、中島はまさに自分の声に限界を感じていた。後年本人が語ったところによれば、当時の発声法では厚みがなさすぎ、音域もちょっと足りない。だが、そのせいで歌う曲が狭められるのが許せなかった。実際に、つくった曲のなかには声が出ないので歌えないままになっていたものもあったという(※4)。

「涙-Made in tears-」(1988年)

 そこで彼女は、声域を広げ、また長時間の舞台でもボルテージを落とさずに歌える発声と体力をつけるべく、ボイストレーナーについて基本的な発声の仕方から学び直すことになる。それはデビューから10年あまりが経ったころだった。

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 同時期にプロデューサー兼アレンジャーに瀬尾一三を迎えたことも、中島の可能性を広げた。1988年リリースのシングル「涙―Made in tears―」とアルバム『グッバイ ガール』で初めてタッグを組んだ瀬尾は、翌1989年にコンサートでも演劇でもない新たな形式のライブ「夜会」が始まると音楽監督も任されるなど、中島の音楽活動に全面的にかかわっていくことになる。

音楽業界では “面倒くさい人”という評判もあったが…

 じつは瀬尾は、中島サイドからプロデューサーの打診を受けたとき、自分とは絶対に合わないと思ったという。それ以前より、中島と一緒に仕事をしたミュージシャンなどから“面倒くさい人”というような評判も聞いていた。

 しかし、彼女と会って直接話をしてみて、自分と物の見方が似ていて、同じ方向を見ていることに気づく。そこでもう少し突っ込んで色々な話をしてみると、彼女が曲づくりのためしごくまっとうな要求をしているにもかかわらず、ミュージシャンのなかにはそれを面倒くさいと思う人がいるのだということもわかってきた。