瀬尾はそれでも《彼女が僕と同じ方向からものを見ているなら、問題の解決方法もあるのではないか。それならやってみようかと思い》、プロデューサーを引き受けたという(※5)。それからというもの彼は、中島の要求に応えながら、彼女の世界を具現化する一端を担い、現在にいたるまで30年以上も二人三脚を続けている。
中島みゆきは最初のヒット曲である「わかれうた」をはじめ、初期には失恋の歌が目立った。そのため彼女に対し「暗い」というパブリックイメージが、筆者が高校生だった30年ぐらい前まではまだ残っていたと記憶する。しかし、いつの間にかそんなイメージも消えていた。いまや中島みゆきといえば、スケールの大きな楽曲をそれにふさわしい声量で歌い上げるというのが、世間一般のイメージではないだろうか。それも彼女が、それまで築いてきた立場にけっして安住せず、常に高い目標のもと瀬尾らスタッフとともに試行錯誤を続けてきたからこそだろう。
「これじゃあ、一生つくり続けていくしかないですね」
しかし、目指すレベルが高すぎるがゆえ、中島はアルバムをリリースしても、コンサートを終えても、そのたびに後悔するという。20年ほど前のインタビューでは、そう明かした上で、《これじゃあ、一生つくり続けていくしかないですね。それか、あるとき、すっぱり諦めて、「もうダメだ」と思うか、どっちかですね。多分、棺桶に入っても蓋開けて、「まだ違う気がするの」って言いそう。ヒッヒッヒ。私の墓場の近辺では、夜中、「なんか違う気がするの」って言ってるのがボーッと出ます、確実に。すいません。アッハハハ》と冗談めかして語っていた(※6)。
中島は初期の代表曲のひとつ「うらみ・ます」で、自分を振った男を恨み続ける女の気持ちを歌ったが、最後の「うらみます あんたのこと死ぬまで」という詞には、死んだあとは恨まないという意味を反語的に込めたつもりであったらしい(※7)。
その彼女が、こと自分の作品については死んでもなお満足できそうにないという。逆にいえばその執念こそが、中島みゆきにけっして後ろを振り返らせず、絶えず前進させる原動力となっているのだろう。
※1 『クレア』1994年12月号
※2 中島みゆき『愛が好きですⅡ』(新潮文庫、1993年)
※3 北中正和「中島みゆきの聞こえない音楽」(谷川俊太郎ほか『中島みゆき ミラクル・アイランド』創樹社、1983年所収)
※4 『週刊文春』1996年6月27日号
※5 瀬尾一三『音楽と契約した男 瀬尾一三』(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス出版部、2020年)
※6 『婦人公論』2000年1月7日号
※7 『週刊朝日』2003年11月28日号