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「新規の仕事の依頼がない」サザエさん穴子役・若本規夫が声優歴25年目で“すべてを捨てる決意”をした理由

『若本規夫のすべらない話』より #3

2022/04/23
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声が差し替えられていたCMオンエア

 CMはまた違う。まず第一にあるのが、クライアントが納得しないとダメということ。クライアントとディレクターが別にいるから、そこで意見が違っていたら、違ったディレクションをされることもある。

 一度、シャンプーのCMで、頭を洗っているシーンで、原稿に「気持ちいいことしませんか」と書いてある。「若本さん、色っぽい感じでお願いします」と言われてそういうふうにやった。「はい、OKです」と言ったあとから、なにやらモニターの向こうでもめている。こちらは「お疲れさまでした」と帰って、しばらくしてオンエアを見たら、聞こえてくるはずの僕の声が聞こえてこない。ナレーターが変わっていたんだ。僕とは全然違うタイプの声だし、表現の仕方も全然違う。屈辱だったよ。あのヤローって思ったよね。現場では何にも説明がないんだから、怖い世界だよ……。

 でも、クライアントが求めていたものと僕の出したものが違ったってことだから、しょうがないと言えばしょうがない。今の僕なら、数パターンはやるよ。オーソドックス風、おちゃめ風、バイオレンス風とかってね。5パターンくらい出しちゃう。

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 そうすると、向こうはもう何も言えなくなるんだよ。「ほかに何かあればやるよ」「いや、もうけっこうです」って。

 当時は、個性というのもあまりなくて、今のように自由自在に表現できるような力なんかもちろんなかった。だから、そのとき自分の持っているいちばん最高のものを提供するということしかできなかった。

 で、もしそれを否定されたら、次がないんだ。何も出せなくなる。そういう底の浅さがあった。今なら、否定されたらじゃあこれ、これ、これっていくらでも出てくる。そのときは、精いっぱいのものをえいっと出して、否定されたら困るなあと内心ビクビクしていたよ。