性教育を巡って教育界と医療界が対立
実際に、1890年に公布された「教育勅語」で触れられている性教育には、中等学校、高等学校、大学に通う男子学生に向けて、学生のうちは「性的に奔放であること」「絶倫であること」「性欲に満ちていること」はよくないこととされ、オナニーや性交は厳しく禁じられていました。
というのも、国家繁栄のためには、当時は「産めよ殖やせよ」という国策が推進されており、一人前の社会人になったら子をなすことを強く推奨していたのです。そのため、男子は、学生時代にはオナニーをせずひたすら禁欲し、結婚したら即、避妊なしのセックスをして、子どもをたくさん作ることを期待されていました。
その背景として、1890~1910年頃には、学生風紀が乱れ、性行為感染症(当時は花柳病[かりゅうびょう]と呼ばれていた)も蔓延しており、学校現場の教師たちは危機意識を持っていましたが、学生の性行動への対応には苦慮していました。そこで、医師たちは、性教育を通じて学生の性問題を解決するべく立ち上がったのです。
ところが、この性教育を巡って、教育界と医療界で対立が起こりました。医学者中心の「性知識教育推進派」と、教育者中心の「性知識教育懐疑派」という対決の構図でしたが、性教育に懐疑的な教育者の主張というのが、現代と同じで、「科学的な性知識のみの性教育は、それが刺激になって性的悪行の手助けをするのでは」というものでした。
「オナニー有害説」が大正期の性教育にも受け継がれる
たとえば、医学者は性行為感染症について教える際、生理学的知識や感染症のメカニズムを理解させると同時に、それを防ぐためのコンドームを主とした感染症予防法を教えることが必要であると主張します。そうすると、教育者側は、コンドームの使い方を教えるということは、性感染症や計画外妊娠を気にすることなく婚外性交を楽しむ術を伝授することになるのではないか、という理屈で反論していたのです。
まさしく、現代の性教育を阻む「寝た子を起こすな」という論理で、この時代から脈々と受け継がれているのです。
つまり、教育者たちは、学生が性欲のとりこになって学業がおろそかになることを、政治家たちは、人々が婚外で自由にセックスをすることに夢中になって子どもを作ることがおろそかになることを、恐れていたのです。
同時期に西洋から輸入された「オナニー有害説」が教育界に広がり、衛生学や小児科学を主とした医学会も同じ立場を取りました。
その結果、少年期にオナニーを行うと、身体の発育停止やED、男性不妊を招き、ひどい場合には脳の力が衰えて精神的にも「沈鬱病(ちんうつびょう)」になる、という教えが、大正期の性教育にも受け継がれていったのです。