2012(平成24)年に死去した自民党の元衆院議員・浜田幸一は、さまざまな荒っぽい言動で「政界の暴れん坊」の異名をとった。とりわけ衆議院の予算委員会で、委員長の立場にありながら、時の共産党議長を「殺人者」と呼び、審議を紛糾させたことは波紋を呼んだ。それは1988(昭和63)年2月6日、いまから30年前のきょうのできごとである。

 事の発端は、共産党の正森成二議員(肩書きは当時、以下同)が、過去の自民党政権が左翼過激派に対し泳がせ政策を行なっていたのではないかと質問したことだった。正森はその証拠として、1984年の中核派による自民党本部放火事件の際に、浜田がテレビ番組で「責任は中核派を泳がせていた我々にある」と発言したことをあげた。これに対し浜田は、次のように当時共産党のトップだった宮本顕治議長の名をあげて答弁する。

《我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました。(中略)ですから、私は、自由民主党としてはあらゆる行為をとってきたと申し上げただけであります》(引用は議事録より)

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「殺人者」発言は波紋を呼び、委員長を辞任することに

 宮本を「殺人者」と呼んだのは、戦前の共産党内でのスパイ査問事件(リンチ殺人事件)と絡めてのことだった。これに正森は「そういう発言は断じて許せない」と激しく反発する。このあと騒ぎは一旦は収まるが、正森が宮澤喜一蔵相に質問中、浜田は突然それをさえぎるように、再び宮本のリンチ事件への関与に言及、共産党への不信をあらわにした。

 浜田の発言に対しては、野党だけでなく自民党からも批判が上がり、それから約1週間、予算委員会の審議はストップする。この間、共産党は浜田の委員長辞任と、議事録からの彼の発言の削除を要求。当人はいずれも拒んだが、自民党の安倍晋太郎幹事長の説得もあり、2月12日、辞任を表明した。ただし、発言の削除については最後まで受け入れなかった。

 後年、浜田は著書のなかで、このときの発言について、《正森君が私のテレビ番組での発言の言葉尻だけをとらえて、あたかも日本共産党と私の意見が一致しているかのように言われたのでは、政治家としての私の信条への冒涜(とく)》だと思い、反論したと説明している(浜田幸一『日本をダメにした九人の政治家』講談社)。正森の質問中に再度発言したのも、テレビの国会中継の終了時間が迫っており、視聴者に誤解を与えたままにしておけないという判断からだったという。

 浜田の辞任を受けて、編集者の天野祐吉は《ちゃんと考えなければならないのは、彼が予算委員会に出ていると、国会中継に関心が高まるという問題だ。「善処します」など生気を失った政治家の言葉の中で、彼は一般の人たちに届く言葉を持っている》と指摘した(『朝日新聞』1988年2月13日付)。乱暴ながらも「一般の人たちに届く言葉」を持っていた浜田は、1993年の政界引退後は、テレビの世界でタレントとして才能を開花させることになる。