伝統の持つ意味も知らず、我慢する風潮
ほかにも、戸籍制度ってどこまで意味があるんだろうか、夫婦別姓はどう判断するべきなのか、敷金礼金は、飛び級もない学校制度などなど、日本の停滞というのは制度の硬直化、制度疲労が原因なんじゃないかと思うのです。それも、戦後復興を成し遂げたものの、その後バブル崩壊を経て少子高齢化で国力が停滞から衰退に陥るこの日本社会で、いまなお各所で「人口や経済の右肩上がりを前提にした制度」や「各構成員の我慢を前提にした画一的な組織を良しとする風潮」がなかなか改まらない。
子供の制服にしても、なぜ小学生は一部の学校で半ズボンを履くことが決められているのか、子供にとっておそらくは重くかさばるであろうランドセルが強要されているのか、悩みは持ちつつも「それが決まりだから」と我慢する保護者は多いはずです。伝統と言えば伝統だけど、その伝統がどういう意味を持つのか知らされず理解する機会も無いまま、それに我慢するほかないというのもまた変な話で。
大学を潰さない制度にしても、そもそも生まれる日本人の数が減少しているのだから、高度人材の育成が国力確保に必要だとしても教育機関が過剰なら教育者や研究者一人当たりの使えるお金の額は減るし教育の質も担保できません。そうなると、留学生でもいいからとにかく学生を入れるために呼んで来いとなって、海外から来てくれた学生さんの何割かがコンビニでバイトして生活しているという本末転倒な事態に陥るわけであります。
元号が変わるタイミングで何を考えるべきか
必要なことは、伝統の中でも日本の芯に相応しい哲学・思想に基づいた制度を残しながら、より経済的に合理的なほう、国民にとって選択肢が増えるほうに、社会を進化させていくための改革をするべきなんだと思うんですよ。企業と雇用者の関係でサービス残業の問題がなかなか改まらない状況でプレミアムフライデーをやってみたり、働き口もなく遊ぶ場所もない魅力不足な地方だから若者が都会に出ていくことを防ぐための地域振興予算を老人にばら撒いたり、せっかくこれから元号が変わろうかというところで旧態依然とした仕組みで動いている現状では困ります。
たぶんですが、国民はみんな「どうにかしないといけない」と思っていると感じます。でも、やろうとすることは、全員が直面している生活や仕事の苦悩と希望で各々違っているのだから、制度として必要なことは「新しい制度を模索して切り替える」だけではなくて「その人にあった生き方が認められるよう、可能な選択肢を増やす」方向にならざるを得ないと思います。
なので、元号が折角変わるタイミングなので、そういう日本の風習の中で改廃するべきものを議論するための年間、みたいなものにすればいいと思うんですけど、なんかそういう雰囲気じゃないんですよね。もう元号は「元気モリモリご飯パワー」でいいんじゃないでしょうか。