これが今の日本社会です。日本人は和を重んじる、日本人は思いやりがある、と言われているのに、和も思いやりもない。圧倒的な「共感」の欠如です。「米が買えないのはアンタが悪い。それはアンタの自己責任」と切って捨てたのです。
不寛容社会の構図
苦しい人たちが苦しむ人たちを叩く構図は、数年前の生活保護叩きから表面化したように思います。「勝ち組、負け組」という二分法がさまざまな局面で使われるようになり、「私はこんなに頑張っているのに、なんで評価されない?」という“報われない感”が社会に蔓延しました。
「高度経済成長期のいざなぎ景気を超えた」だの、「名目GDPは過去最高」だの、景気のいい話が飛び交うのに財布の中身は一向に増えず、ちっとも豊かさを実感できない。
そういった不満が「自己責任論」を蔓延させ、生活保護受給者などへの「弱者叩き」や「自分よりうまくやっている人」の足を引っ張るという、極めて利己的な方向に社会を向かわせたのです。
資本主義社会ではカネのある人ほど、さまざまなリソースの獲得が容易になり、「持てる者」は突発的な変化にも素早く対応できるので、弱者との距離は開くばかりです。
本人には自覚はなくとも弱者に寄り添うことができず、すべてが他人事になりがちです。
件の経産省の幹部が高みの見物的物言いを平然としてしまうのもそのためでしょう。
格差社会の固定
リソースは、専門用語ではGRRs(Generalized Resistance Resources =汎抵抗資源)と呼ばれ、世の中にあまねく存在するストレッサーの回避、処理に役立つもののこと。
お金や体力、知力や知識、学歴、住環境、社会的地位、サポートネットワークなどはすべてリソースです。
例えば、大企業など社会的評価の高い集団の一員になることはリソースの獲得になります。大企業の社員は安定して高い収入を得ることができるため、お金や住居などのリソースも容易に獲得できます。
また、リソースは対処に役立つことに加え、人生満足感や職務満足感を高める役目を担っています。例えば、貧困に対処するにはお金(=リソース)が必要ですが、金銭的に豊かになるだけでなく、遊ぶ機会、学ぶ機会、休む機会なども手に入るため人生満足感も高まるといった具合です。
反対に、カネがないとリソースの欠損状態に追いやられます。
その状態は本人だけではなく、その子どもも教育を受ける機会、仲間と学ぶ機会、友達と遊ぶ機会、知識を広げる機会、スポーツや余暇に関わる機会、家族の思い出をつくる機会を得られず、進学する機会、仕事に就く機会、結婚する機会など、「機会略奪(損失)のスパイラル」に入り込みます。