「腑に落ちない」愚痴をこぼした昭和天皇
では、何が「腑に落ちない」のか。天皇は「宣戦の詔で朕が志ならんやといつてることなど少しも読み分けてはくれない」と田島に述べた。それは、1941年12月8日の対英米開戦(アジア・太平洋戦争)の宣戦の詔勅においてその文言が入っていることを、この老人はわかっていないと言いたかったのである。「朕が志ならんや」とは、私の意思はそこではないが、という意味である。
つまり、開戦を命令した宣戦の詔勅であるが、本当は平和裡に解決して欲しいけれどもやむなく開戦に至ったのであるという文言こそ、自分の意思なのだと天皇は強調していた。それも理解せずに自分の退位を請願するような老人の主張はおかしいと田島に愚痴をこぼしたのである。
しかし田島は、天皇の命令が下されたならば必ず謹んで従う(つまり戦争をすることが当然と受け止める)し、そもそも「朕が志ならんや」は日清・日露戦争の宣戦の詔勅でもあった常套句で、そうは受け止めないのが普通であると答えた。このあたり、民間出身の田島らしい返答でもあろう。必ずしも昭和天皇におもねるような答えを返すのではなく、正直に思うことを述べたのである。
昭和天皇は「変な矛盾した事をいつてる」
これに対して、天皇は「ソーか」と答えつつ、「あれには変な矛盾した事をいつてる」とさらに続けた。田島はそれには「大体あの様の意見を持ちましても、大抵の普通の人は敢て宮内省や陛下に書面を出すものはありませぬ。出す人は何れ多少エクセントリツクでございます」と述べた。つまり、心配する必要はないと天皇を慰めたのである。このあたりのバランスが田島は見事だった。
その後、天皇と田島は「拝謁記」に見られるように、様々な会話を展開していくことになるが、天皇にとって田島が芦田首相から送り込まれてきた人物であっても、時には自身に賛同し、時には反対や批判もするような、それまでの宮中にはいない信頼できる人物だったからこそ、彼を信頼したのではないかと思われる。
なぜ昭和天皇はそこまで退位について心配していたのか
ところで、なぜ天皇はそこまで退位について心配していたのだろうか。敗戦直前から戦争責任をめぐって、宮中や日本国内外では天皇退位論がたびたび展開された。特に、1948年には東京裁判結審と関連し、天皇の戦争責任や退位を求める動きが高まっていた。しかし天皇は、「苦労をしても責任上日本の再建に寄与することが責任を尽す途だと考へてゐられる如く見える」(『芦田均日記』1948年8月29日条)と田島が芦田首相に報告したように、むしろ在位し続けることで責任を全うしようと考えていた。天皇はこの年の11月12日、GHQのマッカーサー最高司令官に留任の意思表示を示し、退位問題に終止符を打った。とはいえ、本当はこの機会に人々に対して所信を表明しようと天皇は考えていたが、宮内府内でそれに対する批判も出、結局出すことはなかった。
おそらくこうした状況があったため、昭和天皇には自分が在位し続けている理由を人々に知ってほしいという思いがあり、退位論は彼にとって切実な問題だったのではないか。