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まさかの昭和天皇の答えに大泣き

 その後、天皇は皇太子外遊を進めてほしいとの話を1949年11月28日に田島へ持ち出した。ただ、田島はなぜ天皇が「比較的早い時期」での皇太子外遊を言い出したのか疑問であったため、12月19日の拝謁でそれに対して質問する。そうしたところ、天皇から次のような返答があった。私は、『昭和天皇拝謁記』第一巻のなかで、ここがもっとも劇的な場面だと思う。

〈陛下は、講和が訂結された時に又退位等の論が出ていろいろの情勢が許せば退位とか譲位とかいふことも考へらるゝので、その為には東宮ちやんが早く洋行するのがよいのではないかと思つたとの仰せにて、田島は感激して落涙滂沱、声も出でずしばしば発言し得ず〉

 田島はまさかの天皇の答えに、大泣きしてしまったのである。それは、皇太子外遊を天皇が急がせた理由が、講和独立にともなって退位論が再燃すれば、自分の退位が実現する可能性もある、そうなれば皇太子は即位することになるため外国へ行くのも難しくなる、その前に外遊をしなければならない。そう天皇は考え、田島に「比較的早い時期」の皇太子外遊実現を求めたからであった。これは田島にとって想定外の天皇の返答であった。先に述べたように、GHQと宮中とのあいだでは退位論はすでに前年に決着していた。だからこそ、この時の天皇が退位を意識していたことを田島も予見していなかったのである。それゆえ、天皇の返答を聞いた田島は泣いてしまった。

明仁皇太子とヴァイニング夫人 ©共同通信社

 この後、田島は天皇に「只今の如き全く陛下御自らの御言葉を適当の時に御発し願ふことは誠にうれしい悲しいことに存じます」と述べ、天皇が自らの気持ちを「おことば」にして発することを提案する。天皇自身、自分の思いが人々に伝わっていないことに対してもどかしい思いを持っていたことは、先の退位の請願の時にも述べた。その意味で、田島の提案は天皇にとっても願ってもないものだったのではないか。

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昭和天皇はなぜ田島を信頼したのか?

 この間の田島は、〈こみ上げる感涙にてとぎれとぎれに多少興奮感激強く、なきじやくり等して言葉途切れ勝ちになりしも申上げ、一応切りとなりてとても「おえつ」はげしく、取乱し恐れ入る斗り〉という様子だったようである。それだけ天皇が責任を感じて退位を考えているということは想定外だったのだろう。天皇はその田島の様子を見て「少し御感慨の御様子らしく想像せられたり」と田島は書いており、天皇にとっても田島の反応は予想外だったのではないか。この日の拝謁は、二人の信頼関係がより強固になった機会になったと思われる。

 以上のように、天皇はなんらかの戦争責任を感じ、それゆえに在位し続けた。しかし、戦後にそうした思いを持ち続けていること、開戦時にもそれに対して疑義を持っていたことが人々に伝わっていないことに、もどかしさを感じていた。そして、やはりどこかで戦争責任から自身が退位を迫られる可能性があることも想定していた。そうした天皇の複雑な思いが『昭和天皇拝謁記』から伝わってくるのである。

後編に続く)